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美人すぎて科学者にはむかない

加藤セチものがたり(一)「座り込みの君」

セチ肖像(科学知識)アレンジ.jpg

加藤セチは、科学者。
青春を送った、明治・大正の頃。

恵まれた家庭に生まれるが、破産して地に堕ちる。
頭脳だけを頼りに、北海道帝国大学に志願するが-

史実に基づいた、ある女性科学者の一代記。



「加藤清正流伝承」については、
物語解説」のうち「第十四話 石垣の穴(二)
 をご参照ください。

ニュース

2025.
シリーズ日本の伝記「知のパイオニア」第3期(玉川大学出版)
「加藤セチと女性科学者たち」加藤祐輔
本作のあらすじを、児童書として出版(予定)。
https://www.tamagawa-up.jp/search/s17369.html

2024.03.31
東京工業大学・公文書室だより No.9「1.ダイバーシティの先駆者(DEI = Diversity, Equity & Inclusion)
取材時のエピソードが掲載されました。
https://www.cent.titech.ac.jp/41606c882ed600cbe18c776f459c6c77c60aebb0.pdf


2022.11.15
NHK札幌放送局より、取材を受けました。


2022.07.20
山形大学・がっさん通信・折に触れて 12
「山形女子師範学校時代の加藤セチは?」
当webページが紹介されました。
https://www.yamagata-u.ac.jp/jp/university/column/0720/


2022.03.08
webページを公開しました。


2022.03.02
北海道マガジン「カイ」:特集・北大界隈
「北大最初の女子学生おせっちゃん」矢島あずさ
取材時のエピソードが掲載されました。
https://kai-hokkaido.com/feature_vol49_katosechi/


2021.12
北星学園・学園報154号・記念館ノート vol.7
「女性科学者・加藤セチ」矢島あずさ
取材時のエピソードが掲載されました。
https://houjin.hokusei.ac.jp/hgu/wp-content/uploads/2022/03/%E7%AC%AC154%E5%8F%B7%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88.pdf


2021.12
北海道大学農学同窓会・札幌農学同窓会誌
「北大最初の女学生・加藤セチの物語(仮題)プロジェクト」加藤祐輔

記事が掲載されました(本webページ「はじめに」の原文です)。
 

第一話 美人すぎて(一)
第二話 美人すぎて(二)

第三話 美人すぎて(三)
第四話 天機かもしれない
第五話 ただのゼスチュアだったのですか?
第六話 座り込み
第七話 澱んだ豆かす(一)
第八話 澱んだ豆かす(二)
第九話 作戦変更(一)
第十話 作戦変更(二)

第十一話 落日の赤(一)
第十二話 落日の赤(二)
第十三話 石垣の穴(一)
第十四話 石垣の穴(二)
第十五話 素裸の自分
第十六話 深く泣きくれているのである(一)
第十七話 深く泣きくれているのである(二)
第十八話 武家の倫理
第十九話 珍学生(一)
第二十話 珍学生(二)

第二十一話 有楽町のシンガーミシン
第二十二話 母のくれぐれの頼みです(一)
第二十三話 母のくれぐれの頼みです(二)
第二十四話 母のくれぐれの頼みです(三)
第二十五話 東京女高師
第二十六話 擬戦遊戯(一)
第二十七話 擬戦遊戯(二)
第二十八話 二度目の教授会(一)
第二十九話 二度目の教授会(二)
第三十話 川代山の忘れ形見が(一)

第三十一話 川代山の忘れ形見が(二)
第三十二話 日本人を育てるのは誰か?
第三十三話 実験するべきだ
第三十四話 エルム(一)
第三十五話 エルム(二)
第三十六話 ちょっと可哀そうな者


以下、「加藤セチものがたり(二)」につづく

 

第一話 美人すぎて(一)

 

 

「美人すぎて、科学者には向かない・・」

 

東北訛りがきついので、

「びずんすぐて・・」

と聞こえる。

 

「・・そのように、云う者もいました。」

 

佐藤は、無理に笑みを浮かべようとした。

苦しい目元と、笑う口元が、ちくはぐだった。

六十二歳の老齢とはいえ、スマートな美男だった。

顔には皺が豊かに現れて、表情がわかりやすい。

 

目の前には、二十代も半ばだろうか、娘がひとり、洋椅子に座っていた。

何も言わない。

真っ白な襟元の羽織着物を、固くまとって、身じろぎもしなかった。

 

佐藤は、目線を外した。

立ち上がって、後ろの窓から、外を覗いた。

まだ、陽も高い。

子供たちが、遊んでいる。

皆、身なりはよい。

芝がきれいな校舎の周りは、この街でも名所だった。

 

佐藤昌介、この学舎の総長である。

この学舎とは、北海道の札幌にある農科大学のことだ。

もとは東北帝国大学の一支学だったが、この大正七年(一九一八)に北海道帝国大学、

すなわち北大と看板を改めたばかりだった。

 

娘は、入学を志望していた。

しかし、教授会は、それを許さないことに決めた。

佐藤は、今、それを娘に伝えたばかりである。

 

娘は、苦し気に見えた。

佐藤は、その気持ちを、慰めてやりたかった。

「美人すぎてー」と言ったのは、そのためだった。

美人と云われて少しは嬉しがりもするだろう、と計算したのである。

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解 説


 

第二話 美人すぎて(二)

 

「美人すぎてー」

 

そのような発言した教授会のメンバーがいたのは事実だ。

当時は、学問を究めようとするなら、雑事には一切構わず、生活の全てを捧げるのが当たり前、と思われていた。

女ならば、化粧や着飾りは忘れて、生涯独身を貫く位でなければならない。

実際、その時代の数少ない女性学者たちには、概ねそのイメージに近い人生を送った者も多い。

だから、男に絡む雑音が多い美人は、科学者には不向きだ、というのである。

 

佐藤は、娘が何か言わないかと、待った。

確かに、柔らかな曲線で縁取られた顔をもつ、美人と云ってよい娘だった。

目は、涼しいというか、強い。

そして、どこか海溝の奥を覗くような深さがあった。

娘は、聡明そうに見えた。

情理をつくして話せば、得心してくれるだろう、と思った。

 

八月も下旬、北海道とはいえ、まだ少し暑い。

開いた窓から忍び入った涼風が、わずかに佐藤を慰めた。

 

衣擦れの音ひとつしない。

佐藤は、娘が哀れになった。

他に道はある、と言ってやるか。

帝大でなくとも、と・・。

 

佐藤は、振り返り、再び娘に目をやった。

表情を見た。

そして、仰け反った。

 

(うわっ、怒っている・・)

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解 説

第三話 美人すぎて(三)

 

セチは、まだ頭から湯気を出していた。

 

娘は、加藤セチという。

とりあえず世話になった礼を述べて、その場を辞去したが、たぶんこの怒気は佐藤総長にも伝わってしまっただろう。

そう思いながら、佐藤の居室がある校舎から、大学の正門への道を辿った。

 

三月に、東京の女子高等師範学校(女高師)を卒業した。

現在の、お茶の水女子大学である。

女高師は、卒業して幾年かは、いずれかの学校で教師として奉職する義務がある。

セチは、ひとり北海道に渡り、米国人の婦人宣教師が札幌の中心街に開いた、女子のためのキリスト教伝道学校に赴任した。

北星女学校という。

大学からは、さほど遠くない。

 

ひと月ほど前、七月、女高師の後輩たちが、大挙して札幌にやってきた。

修学旅行である。

若い乙女らが、汽車を乗り継ぎ遅い船に揺られて、煤煙で顔を黒くしながら東北を縦断し、津軽海峡を越えて来た。

夜昼なく移動するので、ろくに宿もとらず、丸三日もかけて札幌にたどり着いた。

それでも、この娘たちが楽しげだったのは、立ち寄る町々には、母校に忠義を尽くす卒業生や父兄がいて、歓迎し、世話を焼いてくれたからである。

セチも、そのような卒業生の一人だった。

先ほどセチの怒りを買った北大の佐藤総長は、長い信徒歴をもつクリスチャンであり、かつては理事も務めた北星女学校の庇護者であった。

そこで、北星の教師であるセチが、後輩たちを引率して、北大を見学させることになった。

佐藤総長も、この若い女学生らを歓迎した。

「我が大学は、女子にも門戸を開きます」

確かに、そう言った。

この頃、帝大に入学できた女子学生は、ほとんど例外的にしか存在しなかった。

そもそも、制度的に入学するのが、難しかった。

セチは、興奮した。

間もなく、セチは北大に入学願書を提出した。

 

「それが・・」

このザマか、とセチは自嘲した。

佐藤が後輩たちにかけた言葉は、多分に調子のいい世辞であったのは、わかっていた。

しかし、仮にも大勢の前で、大学の総長が発した言葉だ。

信じて入学を志望した女子が此処にいるなら、手を尽くすべきではないか。

 

「それを・・」

こともあろうに、美人だから?

見え透いた懐柔をした。

口では女に理解があるようなふりをして、正体はそれか。

腹立ちは止まらないが、行き違う人がないほどに人通りが少なかったは、幸いだった。

さっき、窓から佐藤を嬲った涼風が、不意にセチの頬をなでた。

尋常さを失っていた自分に気付いて、少し恥じた。

感情を高ぶらせても、解決の足しにはならない。

理に合わないのは嫌いだ。

「ふん」

とため息ひとつ吐き出して、せかせかと下宿に足を向けた。

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解 説

第四話 天機かもしれない

 

ところがー

セチは、とんでもない勘違いをしていた。

佐藤こそ、セチの一番の味方だったのである。

 

北大の功労者といえば、「青年よ、大志を抱け」の言葉で知られる初期のお雇い外国人教授ウィリアム・クラークを思い浮かべる人が多いだろう。

しかし、少し北大の歴史を知る人ならば、間違いなく佐藤昌介の名を第一に挙げるはずである。

彼は、明治以前、南部藩士の長男として生まれた。

生地は、今の岩手県花巻である。

きつい東北訛りは、その故郷の証だった。

札幌農学校の第一期生として学び、明治二十七年(一八九四)以来、実に生涯のうち四十年近くは総長の重職にあった。

幾度かの廃校の危機を撥ねのけ、単科大学に過ぎなかった札幌農学校を、北海道帝国大学にまで発展させたのは、ひとえに佐藤の功績と言ってよい。

今日では、「北大育ての親」と称えられている。

この時から、ひと月後に首相となった原敬は、南部藩時代の親友である。

佐藤の物事を判ずる視点は、その原と変わらない。

すなわち、「日本国を守り育てるには、何をすべきか」という高所からの視点である。

 

佐藤は、女子教育の貧しさが、日本のひどい弱点だと思っていた。

 

佐藤は、二度、長く米国に滞在したことがある。

一度目は、もう四半世紀も前、明治十五年(一八八二)から四年間の留学。

最高学府のハーバード大学が、女子の高等教育のために、女子部を併設しようとしていた時だった。

男に追いすがって、女が世の表舞台に飛び出す、初めの一歩だった。

佐藤は、驚いた。

この時、日本には一人の女子大学生もおらず、セチが卒業した女子の最高学府である東京女高師も成立していない。

 

しかし、五年前の大正二年(一九一三)、二度目の米国滞在で受けた衝撃は、その比ではなかった。

「男学生が二千いれば、女学生も二千いる・・」

しかも、何を臆することなく、男と肩を並べて、風を切って歩いている。

佐藤がそれを目撃したのは、欧州ではセルビアの皇太子が撃たれ、第一次世界大戦が勃発する前夜の頃であった。

国と国が、互いに掌をいがみあわせて、額をすりつけ睨みあう、帝国主義の世の歪が、ひとつの高潮に達していた。

負ければ世界の隅に追いやられ、もっと弱ければ植民地の地獄に落ちる、必死の時代だった。

優位は、言うまでもなく欧米だった。

日本は、それに倣い、なりふり構わぬ富国強兵・殖産興業の策によって、掴みかかる手を払い、先進国の間を泳ぎぬけて、辛うじて国体を保つことに成功した。

だが、足を止めれば、簡単に奈落に落ちるだろう。

 

いずれの国でも、人の半分は女である。

すでに列強である欧米が、女の力を生き生きと発揮させ、倍の活力を持とうとしている。

日本が、もし遅れをとるなら、その差はもう埋めがたく、二流三流国家への転落が待っている。

 

「これは、天機かもしれない」

佐藤は、セチの可愛い不機嫌な顔を思い出しながら、頭脳を巡らせた。

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解 説

第五話 ただのゼスチュアだったのですか?

 

翌日-

 

佐藤は、予定の会合をひとつ終えて、居室に戻ろうとしていた。

部屋の前に、セチがいた。

佐藤は、

(やはり、来たか)

と、内心にんまりした。

 

「得心が、いきません」

山形の出であるセチは、佐藤と同様の東北言葉で、このような意味のことを言った。

東京暮らしもしたが、訛りは抜けていない。

 

昨日、佐藤はセチに、入学は認められない、と伝えた。

教授会の決定だった。

理由はいろいろあったが、とりわけ、女高師を卒業した程度では学力が低すぎる、とても帝大の授業にはついてゆけないだろう、と判断されたからだ。

 

帝国大学に入学するには、小学校-中学校―大学予科(高校)―大学が、通常の道筋である。

ただし、これは男子にのみ許された。

女子の教育では、女高師は、最も程度が高い。

しかし、それは中学に毛の生えたくらいのレベルに過ぎないと思われていた。

 

だが、セチは

「女子は、予科には、入れません。

それは、制度のせいで、私にはどうしようもありません。」

納得できない、と言う。

「実力が不足と言うなら、試験して確かめてください」

 

さらに、言う。

「先生は、北大は女子にも門戸を開く、とおっしゃいました。

しかし、女高師を出た私が、試験を受けることも許されず、門前払いならば、いったい誰が入学できるのでしょうか?」

と詰め寄った。

 

(そりゃ、そうだ)

と佐藤は、思った。

セチは、正しい。

 

しかし、佐藤は、

「確かに、予科の教育を受けられなかったのは、君のせいではない。

だが、制度が整わない今は、まだ、女子を入れるべきでない、との意見が大勢だった。

君は良くても、大学は迷惑するのだ。

気の毒だが、こらえてほしい」

と、本心とは裏腹な答えをした。

 

セチは、口をつぐんだまま、大きな瞳でまっすぐな視線だけを、佐藤に送った。

セチの眼力は強い。

しかし、佐藤は、それに気づかぬような素振りで、扉に手をかけ、居室に隠れた。

 

 

次の日、またセチは現れた。

 

「昨日のお言葉、考えに考えました。」

セチは言う。

「しかし、やはり得心できません。

ご説明のどおりなら、女の私は、最初から入学する術など、無いではありませんか。

女子にも門戸を開く、とおっしゃったのは、私や後輩たちへの、ただのゼスチュアだったのですか?」

 

佐藤は答えた。

「ゼスチュアではない。

本心、そう考えている。

そして、いずれそうなる。

しかし、今は難しい。

そういうことだ。」

 

佐藤は、じっとセチの目を見つめた。

セチも、まっすぐに佐藤を見返した。

二人とも何も言わずに、三回ほど呼吸をしただろうか。

佐藤は、軽く会釈して、話の終わりを告げた。

セチも、ゆっくり会釈し返した。

この日も、佐藤は、つれなく居室に姿を消した。

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解 説

第六話 座り込み

 

それから程なくして、佐藤は森本厚吉の部屋を訪ねた。

森本は、広い額に短い顔、秀麗を絵に書いたような顔立ちに、丸眼鏡という風貌である。

そして、教務部長をつとめていた。

学生の教務や教授会など、大学の内政に関する元締めである。

教授としては、佐藤と同じ農業経済が専門であり、近しい関係だった。

 

森本は、ニヤニヤしていた。

「例の入学志望の女子が、佐藤さんの部屋の前で、座り込みを始めたらしいですね」

森本は、佐藤より二回りも若い四十一歳だが、二人の時は気安い。

 

そうなのである。

あれ以来、セチは佐藤の居室の前に、風呂敷一枚ひいて座り込み、佐藤の出入りを待ち構えるようになった。

納得ゆく回答が貰えるまで、一歩も引かない構えだ。

「さすがに、噂になっていますよ」

それは、そうだろう。

まだ夏季休暇中なので、学生にはさほど知られていないだろうが、教授陣の耳には入りつつあるようだ。

 

「ほう、噂になっているか」

と、佐藤は言ったが、さほど困っている様ではない。

「それで、どうするつもりですか?」

と森本は返した。

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解 説

第七話 澱んだ豆かす(一)

 

数日前の教授会は、首尾が悪かった。

セチの入学希望をうけて、可否を審議した。

佐藤や森本は、米国で女性が男性と同等に大学に進学する現状を目の当たりにしており、日本の遅れに危機感を抱いている。

他の教授の多くもまた、国の命によって、様々な欧米諸国への留学を経験した者が多い。

佐藤たちは、自分らの焦燥は、教授会の大半に共感を得られるだろう、と踏んでいた。

ところが、反対の主張は思いのほか頑強であり、むしろ過半はそちらに味方した。

結果は否と出た。

 

反対派の論拠は、いくつかある。

まず、女子が大学で学ぶのは、婚期や出産を遅らせるので有害だ、という主張である。

女子は多くの子を産み人口を増やすことが、日本の繁栄に最も重要だから、との理屈だ。

身も蓋もないが、むしろ常識的な意見と言ってよい。

この時代の女子のあるべき姿とされていた良妻賢母とは、平たく言えばそういうことなのである。

四半世紀後にペニシリンなどの抗生物質が医療に用いられるまでは、結核や流感などの感染症で、子供は簡単に死んだ。

一人の女性は、四人も五人も、いやそれ以上に産まなければ、人口を維持することも難しい。

国と国との力比べである帝国主義の時代には、それは切実な問題だった。

現代なら女性蔑視と眉をひそめられるだろうが、笑えない現実だった。

歯に衣着せぬ荒くれとして知られた動物学教授の八田三郎らは、これを強く訴え、同調する者も多かった。

 

そして、佐藤がセチにも伝えたように、女高師を出ただけでは学力が低すぎて帝大の教育にはついてゆけないだろう、という観測がある。

これは、残念ながら半ば事実であり、女高師は予科のレベルには及ばない。

ただし「半ば」というのは、それを覆した実例があるからだ。

実は、五年前の大正二年(一九一三)、セチと同じ東京女高師の卒業生が、東北帝国大学に正規の学生として入学を許されている。

しかも、二名である。

このセチの先輩たちは、いずれも男性に引けをとらず、極めて優秀と評価された。

ほんの半年足らず前まで、この北大も東北大の一支学だったのだから、セチは運がない。

東北大のままなら、あるいは先例に準じて入学を許可されたかもしれなかった。

 

とはいえ北大のルールでも、セチにはチャンスがあるはずだった。

「大学が検定試験を行い、大学予科の卒業者と同等の学力ありと認定した者は、入学を許可する」

と学則に定められていたからである。

しかしー

教授会は、その検定試験を受験する機会すら、セチに与えなかった。

ここに、セチの入学志望に対する、より根深い「第三の反対理由」がある。

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解 説​​

第八話 澱んだ豆かす(二)

 

 

セチが佐藤の居室の前に座り込みを始めて、三日目。

机に向かっていた佐藤の耳に、窓越しにバカでかい学生の声が入ってきた。

「何が悲しくて、女が入れるような大学に居られるか。もう、辞める!」

わざと、廊下のセチの耳に届くように、声を張り上げたのかもしれない。

よく聞き取れないが、そうだそうだと一味らしい者の同調があり、しばらく騒めいた。

やはり、聞えよがしに言っている。

 

佐藤は、こめかみに指をあてて、暫し考え込んだ。

セチの入学を阻む理由は、公正透明なものばかりではない。

女が正規の学生になれるような大学なら、格が疑われる。

それが嫌だ-と、思うものは大勢いる。

教官も、はっきりとは口に出さないが、同じ考えの者は少なくないように見える。

そんな味噌汁の底にある澱んだ豆かすのような感情が、理由の三つ目だった。

 

もうひとつ、セチの入学に反対する幾つもの理由の根底には、女性の地位向上を訴える「婦権運動」に対する嫌悪感があった。

この時期、婦権運動は、社会主義運動などと同列の反体制運動の一種とみなす者も多かった。

セチの入学志望も、婦権運動のようなものと受け取られて、一部の教授たちの反感を買ったのである。

 

佐藤は、いずれ女子にも大学の門戸を開くべき、と心底おもっている。

しかし、今は時機尚早だ、とも感じていた。

先ほどの学生の嫌がらせを、苦々しく反芻した。

「女への蔑視が、ひどすぎる」

欧米との埋めがたい差が、ここにある。

 

ここ日本では、まだ成年の男女が、区別なく机を並べるのは難しいだろう。

いかがわしい真似をする者さえ現れかねない。

なぜなら、今の日本の男は、女を同格の人間として見ることができないからである。

同じ家に暮らしながら、家長や長男は美食を楽しみ、女はまるで異なる貧相なものを食べ、サンマ一匹まるごと食べるなど夢にみるほどの贅沢、などという光景は珍しくない。

できる女を男が好まない、という理由から、嫁し遅れるのを恐れて、女が上級の学校に進学するのを許さない家庭も多い。

良妻賢母の他には、女に目指すべきものはない、というのが主流の考え方である。

 

この軛から逃れるには、男女平等を、幼いころから教育する以外にはなかった。

だが、それは学問や技術のように急に育てられるものではなく、長い年月がいる。

米国の大学で見たような、肩で風を切る女学生の姿を、まだ佐藤は想像できなかった。

セチのような志望者の出現は、待望だった。

しかし、早すぎた。

 

佐藤は、無理をしない。

とはいえ、諦めが良いわけでもなかった。

佐藤は、北大が札幌農学校であった頃から、もう四半世紀も中枢として重責を担っている。

その間、二度ほど、学校が潰れかけたことがあった。

何れも中央政治の諍いに起因する、とばっちりのようなものだったが、そのとき佐藤は弁舌をもって果敢に政府役人に立ち向かい、農学校の危機を救った。

だが、それ以外は、大きな冒険をすることもなく、時流に乗って泳ぐように、農学校を今日の北大にまで育てた。

 

大昔の武将、織田信長は桶狭間で大博打をして運命を切り開いたことから、冒険的な人のように誤解される。

ところが、実際には、ほとんどは無理な冒険を避け、時間をかけて周到に有利な情況を作り上げ、柿が熟れて自然に落ちるように勝利をつかんだという。

佐藤の戦いの仕方は、それに少し似るかもしれない。

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解 説

第九話 作戦変更(一)

 

 

明くる日―

また座り込みに勤しんでいたセチのもとに、森本がやってきた。

「君は、入学志望者の加藤セチか?」

セチは、ほんの二、三秒だったか、顔を上げて真っすぐ森本の目を見上げた。

そして、立ち上がって向き直り、

「はい」

と答えた。

 

「来なさい」

森本は、セチを促して、自分の居室まで連れ帰った。

席を勧めて、簡単に茶を淹れてやった。

佐藤の居室の前で、こちらを見つめ返したセチの眼は、強さ鋭さばかりが気になったが、今は少し和らいだような気もする。

 

「佐藤総長からも、直々に、君の入学を許可できないことは、聞いただろう」

「はい」

「まだ、納得できないそうだな」

「はい」

「君にも言い分はあることは、聞いた。

だが、君も承知のとおり、当方にも相応の理由がある。

わが校の教授たちが議論を尽くして、君の処遇を決めた。

引き下がるべきだとは、思わんか?」

「・・・」

セチは、目線を伏せて、二呼吸ほどおいた。

 

「教授の先生方が、私についてご議論くださったのは、感謝しております。

しかし、入学の願いは、取り下げかねます。」

静かに、はっきりと言った。

いったん目を閉じ、少し口を結んだ。

「私は、東京の女高師を出て、一端の学士になったつもりでおりました。」

さらに一呼吸してから、続けた。

「ですが、それは間違いでした。

私は、北星の女学校で教師をしております。

そこで、生徒を教えてみました。

そして、はっきりわかりました。

私は、学んだ気になっていたものを、全く理解していない。

他人に教える、という作業をして、私は思い知らされました。」

「・・・」

森本を説得するための作為ではない。

認めたくない己のふがいなさを、苦心して吐露する様子が見て取れた。

こうして実際に話をするまでは、座り込みのような攻撃的な主張を、たった一人でやってのけるなど、この娘は、よほど傲慢で独善的な性格かもしれない、とやや疑っていた。

しかし、どうも様子が違うように思えてきた。

 

「私は、物事をわからないまま、この先を生きていたくありません。」

「・・・」

「そのためには、もっと上級の学校で学ぶ以外に、方法を思いつきません。」

「・・・」

「夏に、佐藤先生が、この大学は女子にも門戸を開いている、を言われたのを聞き、感激しました。

そのお言葉を信じて、入学を志願しました。

申し訳ありませんが、願いを取り下げる気はございません。

ただ、ご再考をお願いするのみです。」

そして、少し頭を下げてから、セチは黙った。

 

一息おいて、今度は、森本が口を開いた。

「学を極めたい、というのは立派な心掛けだ。

それは認めよう。

しかし、帝国大学の農学校が、君の願いにふさわしいだろうか?

学べる内容は、女子を相手にするようには、考えられていない。」

セチは真っすぐに、森本を見返していた。

 

森本は、続けた。

「たとえば、君は馬に乗れるか?」

「乗ります。」

間髪いれずに返ってきた。

「男の学生がすることは、何でも、私はやります。」

(これは、むしろやってみたい、ということだな)

森本は、ちょっと唖然とした。

心の中で、クスクス笑ってしまった。

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解 説

第十話 作戦変更(二)

 

森本の腹は、決まった。

「覚悟は、わかった。

ならば、もう一度、願書を出しなおしてみるかね?」

「もう一度・・とは、如何なるものでしょうか?」

セチの双眸が、また強さを増した。

 

「正科生の志願は、先の教授会で却下された。

覆すのは、難しいだろう。

しかし、選科生という道がある。」

選科生とは、聴講生のことである。

授業を履修できるが、修了しても学士の資格は得られない。

 

「全ての教科を履修すれば、学ぶ中身は正科生と同じだ。

しかも、教授会の審査を経れば、正科生に昇格できる規約もある。

そうすれば、卒業して学士にもなれるだろう」

森本は、教務部長である。

この手の学内規約には、誰よりも詳しい。

そのようにして、選科生から正科生への昇格を果たした前例があることも、知っている。

 

「どうだね、全科目の選科生として、改めて入学を希望してみるかね?」

「はい、もちろん、そういたします。」

油圧の回った機械のように、セチの全身に強さが満ちたようだった。

 

礼を述べて辞去したセチを見送って、森本は、佐藤と練った台本どおりに事態を進められたことに、満足した。

 

(しかし・・)

まるで、男と話したような気分だった。

男は、大概は自分の能力を試さずには、いられないものだ。

セチの入学への執着に、それと似たものが見てとれたからだろうか。

もちろん、女にだって、そのような欲求を持つものもいるだろう。

だが、正直、女には珍しい。

女は、女の枠に嵌るからだ。

世間社会が無意識に被せるその枠は、今のところ頑丈で、並みの個性では逸脱するのは難しい。

 

もちろん、世に知られた婦権運動家などには、男のような闘志にあふれる者もいると聞く。

その類の女子だろうか?

それとも、よほど恵まれた家に生まれて、誰に遠慮もしない傲岸な育ちをしたのだろうか?

いや、金持ちの臭いはしない。

 

入学を志望する動機は、立派だった。

しかし、理性が述べる動機は、それを突き動かす内なる要求に裏打ちされなければ、薄っぺらで説得力などない。

それは、確かにあったように思えた。

だが、何なのかは、わからなかった。

 

森本は、セチを分析しきれなかった。

ただ、やはり尋常の女子ではなかったな、と思った。

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解 説

第十一話 落日の赤(一)

 

加藤セチは、山形の庄内地方に生まれた。

庄内は、最上川の河口近くの一帯であり、海に近い。

海に面した商業都市・酒田が最も大きい町だが、江戸時代に庄内藩の城があったのは少し内陸に入った鶴岡だった。

 

セチの生家は、酒田と鶴岡の丁度真ん中に位置する押切村にある。

大地主であった。

庄内では昔、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と戯れ歌に詠まれた。

本間様とは酒田の大地主だが、それと比べれば並の大名など格下だ、というのである。

江戸後期にあたる文政の頃、「鶴亀宝来見立」という相撲に擬えた庄内の分限者番付が世間を賑わせたが、その本間は番付をするのも恐れ多いとして、別格の行司に掲げられた。

セチの実家である押切加藤は、やはり別格である西の行司として、本間の隣に据えられている。

その領地は広大だった。

酒田と鶴岡は約二十五キロほど離れているが、一帯は押切加藤の土地であり、その間は他人の土地に一歩も足を踏み入れずに行き来できたという。

 

その財力に、山形県令の三島通庸が目をつけた。

三島は、押切加藤に、米国流の大規模酪農を興す話をもちかけた。

表向きは官営事業、しかし費用はすべて押切加藤が負担する、という虫のよい話だった。

当時の加藤家の当主は安興、その妻は義(ヨシ)。

二人は、セチの祖父母である。

安興は婿養子であり、実のところはヨシの発言力が強かった。

押切加藤の血脈を受け継ぐ女傑として知られたヨシは、冒険的な三島の提案を受け入れる決断を下した。

あるいは、江戸期に仕え庇護してくれた庄内藩主の酒井家に代わり、新政府の三島を新しい寄る辺として期待したのかもしれない。

そうして、明治十四年(一八八一)、安興とヨシは、鶴岡を挟んで押切とは反対側にある羽黒の川代山に、巨大な牧農場を拓いた。

その規模は、千三百二十町歩という。

ちなみに、一町歩は三千坪と同じである。

その年の夏から秋にかけて、明治天皇の一行が東北と北海道を巡幸し、道中、押切にも立ち寄った。

安興は、豪華な休息所を設け、牧農場の牛を披露し、牛乳を搾って献上する栄誉を賜った。

まさに、人生得意の絶頂だったであろう。

 

しかし-

そもそも牛乳の需要がない明治前期に、易々と牧場事業が軌道に乗る筈もない。

牧農場は、その後、次第に傾きはじめた。

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解 説

第十二話 落日の赤(二)

 

さらに、弱り目に祟り目、という。

安興は、ほどなく明治十六年(一八八三)、病で急逝した。

そのころ、嫡男であるセチの父、正喬は東京の学農社で西洋農学の修行中だった。

学農社の主は、農学者で初期の傑出したクリスチャンとしても知られる津田仙である。

その娘である梅子も、数少ない女子留学生として米国で学んでおり、ヨシとも交流があった。

そうやって、牧場に必要な西洋農業技術を、次代を担うべき正喬に学ばせていたのである。

しかし、急に安興を失った未亡人のヨシは、やむなく正喬を呼び戻した。

 

正喬は、押切加藤の新しい当主となったが、その時は若冠十七歳に過ぎなかった。

学もあり有能な経営者だったが、それでも悪い流れは止められなかった。

川代山の開拓を持ち掛けた三島県令は、安興逝去の前年に山形を去った。

後任の折田県令は、押切加藤の川代山事業に冷淡で、官営事業の看板さえ取り上げてしまった。

土地や家財を売り払い牧農場に注ぎ込んだが、規模は縮小してゆく一方であった。

 

セチが生まれたのは、そのころである。

正喬の四番目の子であった。

かつて本間と並び称された大地主であった押切加藤が、落日の赤に染まりつつある明治二十六年(一八九三)十月のことであった。

 

押切加藤の不幸は、止まらない。

セチがようやく一歳を迎えて間もなく、庄内一帯を大地震が襲った。

明治庄内大地震である。

現在の尺度でいえば、震度七、マグニチュード七・三の烈震で、しかも程近い酒田の直下が震源であった。

各所で大きな被害が生じたが、押切で最も悲惨な例として記録されたのは、よりによってセチの家だった。

押切加藤の屋敷は、殿様然とした壮麗なものだったが、見事に崩れた。

折悪く夕刻だったので、夕餉の支度で火を使っていたため、火災を起こした。

居合わせた人々は、瓦礫に取り残された者を助けようとしたが、太く重たい材を使った豪華な普請が仇となって救助を阻んだため、見殺しにせざるおう得なかった。

不運な来客を含めて六人が、焼死した。

セチは四人兄妹の末子だったが、六歳の兄・義彰と、五歳の長姉・志ンが犠牲になった。

そして、なによりセチは、二十五歳の実母ミヨを、そうして失った。

ただ、セチ自身は使用人に負ぶわれて、二つ年上の次姉・フミと共に、たまたま屋外に居たため無傷だった。

また一歩、押切加藤は落ちぶれの階段を下った。

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第十三話 石垣の穴(一)

 

しばらくして、正喬は後添えの妻を迎えた。

名を錦(キン)という。

江戸期の主君である酒井家に仕えた家老の女子である。

もちろん、今は明治で、実家はすでに家老などではない。

しかし、格式高い武家の娘にふさわしく育てられており、俗人とは違う気品を放っていた。

セチは、幼すぎる時分に実母を失ったので、その面影を何一つ覚えていない。

それ故に、この義母のキンが、セチにとっては唯一の母となった。

そして、まもなくセチに妹マサができた。

 

震災で母屋を失った一家は、蔵のひとつを整理して住まうような有様だったが、それでも相変わらず十五人もの使用人が奉公する一帯の殿様であった。

セチもお付きの女中に付き添われて、むかし祖父の安興が寄贈した土地に建てられた押切尋常小学校に通っていた。

この頃になると、セチの才気は明らかになり、学業では抜群の成績をおさめた。

負けん気が強く、相手が大人でも臆面なく自分の考えを述べる。

女傑で知られた祖母ヨシに似ている、と噂された。

 

父・正喬は極端に無口で、子供に対しても放任主義だった。

その代わりだろうか、同居している正喬の弟・順次郎は、何かとセチの躾に口を出した。

独身の順次郎は、まだ子供のセチに些細な過失を見つけては、お灸を据えたり、土蔵の暗がりに放り込んだりして折檻した。

セチは、そんな叔父の仕打ちに、初めこそ子供らしく反応したが、じきに泣きもしなくなった。

それどころか、謝りもせず自ら土蔵に入ってみせるような、ふてぶてしい態度を見せるようになった。

この大人は、子供を自儘に扱い、腕力でねじ伏せ、服従させて満足している。

その思惑どおりになるものか、という反抗心が強く芽生えたからであった。

順次郎は、そんなセチが、ますます気に入らない。

正喬やキンにも、順次郎からセチの行状が悪様に伝えられた。

両親は、それでもセチを強く矯めようとはしなかったが、何か悲しく強張ったものを、彼女は感じ取っていた。

 

姉フミは、端正で麗しい。

妹マサは、あどけなく可憐だ。

しかし、自分は・・・とセチは思う。

強すぎる目付きや固く結びがちな口は、大人が好む可愛い子供ではない。

叔父の順次郎に、自分ばかり目の敵にされてみて、一層そう信じるようになった。

分かってはいても、生地に逆らって生きるのは無理だった。

暗い滓のようなものが、胸の底に染み付いた。

だが、それを見透かされて、可哀そうな子供、と見下されるのは、大人でも許せなかった。

 

ある日、真夜中に大きな地震に見舞われたことがある。

あの庄内大地震で恐怖が刷り込まれた大人たちは、取り乱して屋外へ飛び出した。

セチが屋内に取り残されたので、先に避難した者たちは声ばかりセチの名を叫び、早く逃げろと促した。

幸い住処は倒れることなく揺れが治まったので、探してみると、セチは大人たちが放置した火元のランプを消して回っていた。

地震を怖がる姿など見せてたまるか、という突っ張り根性がそうさせたのである。

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第十四話 石垣の穴(二)

 

それよりもっとセチの心を暗くしたのは、同じ年頃の女子と自由に遊ぶことを許されなかった境遇だった。

継母キンは、身分の別に厳しく、学校の外では世俗の子供たちとの交わりを固く禁じた。

セチは、なまじ偉そうな土豪の家に生まれついた、自分の境遇が恨めしかった。

家に巡らせた黒塀の下部は石垣だったが、石が抜け落ちた小穴があった。

セチは、秘かに、そこから村の子が遊ぶ様子を覗き見た。

子供というのは良いもので、壁の向こうから覗くセチの目を見つけて、面白がった。

子らもセチを覗くようになり、ささやかな交わりが生まれた。

いつしか、穴は大きくなっていった。

 

セチが八つか九つの、ある日、父母と叔父に、改まった様子で呼び出された。

このような雰囲気は、セチは好まないので、やれやれと思ったが、とりあえず大人しく正座した。

叔父は、これから決して他人には話してはいけない我が家の由緒を教える、という。

それによると、押切加藤は、虎退治で有名な加藤清正公が先祖なのだそうだ。

(ああ、それで・・)

とセチは合点した。

金策のためだろう、蔵から鎧やら刀やらが運び出されて、何処ともなく売られていったが、そのへんが由来だったのだな、と思った。

「自慢したい心は、抑えろ。

家の外では、決して口にしてはならぬ。」

と叔父は釘をさした。

「自慢しません。」

とセチはケロリと言った。

「だいたい、偉いのはご先祖なのに、子孫がチヤホヤされるなんておかしい。」

と言い放った。

もちろん叔父は気に食わなかったらしく、この日もセチは土蔵行きになった。

 

十歳にもなる頃には、体内のエネルギーを持て余すようなセチの言動は、ますます顕かになった。

もう、お付きの使用人には構わず、近所を流れる赤川を素っ裸で泳いでみたり、小汚い村の小娘たちと野原を駆け回ったりするようになった。

学業は抜群で、飛び級で四年課程の尋常小学校を三年で卒業し、高等科に進んでいた。

 

この頃には、セチは自分の家の落ちぶれ様を、はっきり理解できるようにもなっていた。

使用人が減り、かつて大勢にかしづかれて、誇り高く奥方様然としていた継母キンが、ついに自ら水仕事をするまでになっていた。

そして、明治三十六年(一九〇三)、年寄ってからも、なお精神的な柱として家を支え続けた祖母ヨシが、とうとう世を去った。

この女傑を、彼女が君臨し続けた押切の地で看取った後、正喬はついに土地財産の一切を整理し、牧農場のある川代山へと移住した。

江戸前期から、一帯の殿様のような存在だった家は、押切から消えた。

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第十五話 素裸の自分

 

日露戦争の最中、明治三十八年(一九○五)に、セチは十三歳の思春期を迎えた。

今はもう子供の頃とは違って、細やかな感情のアンテナが伸び、急速に見える世界が変化していた。

 

この年の春、鶴岡の高等女学校に進学した。

田園から抜け出して、良家の子女たちと、机を並べる生活を始めたわけである。

ところが、町の女学生たちと初めて接した時、セチは初めて身がすくむのを感じた。

彼女らはいかにも垢ぬけて優雅であり、自信に満ち溢れて見えた。

 

押切にいた時分には、なまじ土地の名家に生まれて下々と付き合えずに不自由だ、などと恨めしく思ったが、笑止だった。

今の自分のみすぼらしさはどうだろう。

同級生たちが放つ光のような気配が、自分にはあるか?

いや、ない。

要するに、田舎者だった、の一言に尽きる。

セチは、教室の隅で息を殺して、女学校の初めの日々を過ごした。

 

さらに、セチの意気を消沈させたのは、授業が進んで明らかになった、級友たちの教養の高さである。

自分の力は、平均にも及ばない、と悟った。

地元では、飛び級をした秀才と言われても、こんなものだった。

実家の看板が通じなければ、素裸の自分の値打ちは、こんなものだった。

打ちのめされて、今は一人の多感な乙女になったセチは、唯々、悲嘆にくれた。

 

-わけではなかった。

 

ひとしきり、認めたくない真実を、のたうち回って受け入れると、俄然このまま押しつぶされてなるものか、と持ち前の反骨が頭をもたげた。

まだ小さな子供の時分に、大人の叔父が腕力で支配しようとするのさえ、遂に撥ね退けた娘の性根は、思春期になったくらいでは変わらない。

 

まず、猛然と読書を始めた。

これは、勝負であった。

十の力を持つ者が八だけ出した八。

六しか力を持たない者が、その全部を出した六。

その六は数の上では八に未だ劣ったとしても、目に見えない色合いは遥に立ち勝るのだ。

田舎者を自認し、町の同級生に引け目を感じながら、セチは劣等感に抗う戦いの中で、そう思うようになった。

 

級友は優しく、別に彼女を蔑んだわけではない。

これは、人知れず、セチの心の中にある戦いであった。

この戦いは、無自覚のうちに、セチに自分自身を教え、周囲の人々を教え、自身を囲む世界を教えた。

セチは、小さな大人になった。

そうして、何も考えずに素っ裸で赤川を泳いだ幼年時代と、知らず知らずに別れを告げた。

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第十六話 深く泣きくれているのである(一)

 

押切加藤に、最期の刻が来た。

明治四十一年(一九〇八)の八月、病に侵された正喬が、悲しく死んだ。

四十三歳だった。

若くして重積を負い、苦労したが報われず、失意のうちに世を去った。

莫大な借財が残った。

相続人となったセチは、限定相続を選ぶ他なかった。

限定相続とは、故人の遺産から負債を清算し、それでも余財があるなら相続できる、という制度である。

すなわち、わずかでも受け取れる遺産が生じるかどうか、わからないくらいに借財が大きかった、ということである。

川代山の牧農場は、残らず競売に付された。

押切加藤は、全てを失った。

何も、残らなかった。

 

人が真の顔を見せるのは、逆境に置かれた時だという。

失えば人生をえぐるような大事を、ひとつも失わずにいられるような安穏とした時には、その顔はわからない。

しかし、そのような大事のひとつを守るために、他の大事を諦めねばならないほどに追い詰められて、初めて他人の目にも、それは見える。

なぜならば、最後に何を守るかが、つまるところ真の顔だからである。

 

この苦境において、見事に潔い真の顔を現したのは、継母キンであった。

娘たちを連れて、一旦は鶴岡の実家に身を寄せたが、そのまま居候するのを良しとはしなかった。

なんと、庄内を去って、東京に出て働き、正喬に代わる新しい押切加藤の当主の経済を支える決心をしたのである。

 

新しい当主とは、セチのことだった。

正喬には嫡男があったが、まだ幼い頃、庄内大震災で亡くした。

残るは女子ばかりだったが、年長のフミは大人しく従順で可愛い娘ではあるものの、瀕死の家を建て直すべき新当主には、不向きであった。

対照的に、セチは男に産まれた方が生きやすかったのではないか、と思えるほどエネルギーを発していた。

そのため、幼少のころから、次代の当主はフミよりもセチに、と待望する雰囲気があった。

キンは、セチの腕白ぶりに手を焼いて当惑する時期もあったが、正喬とも話し合い、「押切加藤を継ぐのはセチである」と、かねて決めていた。

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第十七話 深く泣きくれているのである(二)

 

当のセチは、正喬が病没する少し前から、押切加藤はいよいよ駄目だ、と診立てていた。

金のかかる女学校に通っていれば、家族に負担をかける。

女学校は、辞めよう、と決心した。

そして、正喬が亡くなる少し前の三月、三年生を終えたのを潮時に退学した。

 

その後の身の振り方を模索している時、居候先の主である叔父の水野重慎が、女子師範学校への転学を勧めてくれた。

師範学校は、学費がかからない。

そのかわり、卒業後に、幾年か教師として服務する義務を果たせばよい。

そのため、当時は頭脳明晰だが貧乏な子女が進む、お決まりのコースになっていた。

そうして、セチは小学校の先生となり、家を支える道を選ぶことにした。

翌春の入学を目指して、再び机に向かう日々に戻った。

 

しかし、最寄りの女子師範学校(女師)は、山形にあった。

山形は、同じ県下とはいえ鶴岡からは遠く、出羽山地の月山を越えた向こう側にある。

山形女師に行くことは、家族と共に裕福な暮らしをした、思い出のある庄内との別れを意味した。

 

セチは、山形に向かい、入学試験に臨まなければならなかった。

合格すれば、ただ一人で、教師を目指す生活が待っている。

キンの実娘マサだけは、そのまま鶴岡の水野家に留まることになったが、東京で働こうとするキンは、セチと一緒に庄内を去ることにした。

二人とも、庄内を離れたことはない。

そして、懐かしく離れ難いと思っていた。

 

その日、故郷を後にする両名の佇まいは、毅然としていた。

キンは、武家の女にあるべき強い姿であろうとした。

セチは、例によって、それ泣いているだろう、という他人の思惑どおりには振舞ってやるものか、と意地を張った。

しかし、実際はどうだったろうか。

「拠り所を失ふと人はシャンとして泣かなくなると言うが、實はより以上泣いているのではないだろうか。

泣かないかの如くみせている心は、深く泣きくれているのである。」

後年、セチがこの時を振り返って述懐した言葉である。

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第十八話 武家の倫理

 

母子は、鶴岡の東にある清川に向かった。

かつて屋敷があった押切を経由することもできたのだが、止めにした。

清川からポンポン蒸気船に乗り、新庄まで出て、そこから汽車で山形に至った。

山形では、受験するセチのために、少しだけ良さげな宿に逗留した。

 

キンは、あれこれとセチに世話を焼き、下女のように動き回った。

正喬のもとに嫁いだ頃のキンは、身分の上下に厳格で、使用人にきつく当たったり、セチが小作人の娘どもと付き合うのを禁じたりして、疎まれたりもした。

しかし、面白いことに、今は自分が当主のセチにかしずくべき下の者と判じて、徹底的にセチを立てていた。

つまり、キンの身分観は、身勝手な差別意識ではなく、叩き込まれた峻厳な武家の倫理だったようだ。

 

キンの父、水野藤弥は庄内藩の中老だった。

戊辰戦争では、東北諸藩は新政府に抗ったが、庄内武士は中でも最強と言われた。

藤弥は大隊を指揮して、勝ちに勝った。

大局の趨勢で降伏が決まった際も、藩の正使となり、敵方の黒田清隆に城を明け渡す大役を務めた。

つまり、キンが育った水野家は、武家の中でも、これでもかという程のガチガチの武家だったのである。

その家風が、キンの身にも染みついていたのだろう。

 

ともあれ、キンは、ひたすらに遺漏なくセチの身の回りを気遣い、試験準備の他は何も煩わせないようにした。

そのお陰か、セチは試験に難なく合格した。

その姿を見届けて、キンは心残りを解消した。

別れを告げて、ひとり東京へと旅立っていった。

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第十九話 珍学生(一)

 

山形女師は、現在の山形大学のうち地域教育文化学部の前身である。

女子だけのための師範学校で、男子の学校は別にある。

寄宿舎があった。

セチは、そこで級友と共に、むしろ賑やかな生活を送ることができた。

学費は課せられないので、貧しい境遇には、ありがたい環境だった。

ずっと下り坂の押切加藤の家では、持てるものを少しずつ失ってゆく苦しみに、絶えず苛まれてきた。

今の生活は、その先にあって、ようやく得られた安息であった。

落ち切ったあげくに、その境地に至るとは、皮肉なものだがー

 

さて、そんな安心のせいだろうか、セチは本来の腕白ぶりを、しばしば発揮するようになった。

たとえば、授業の作文で、「平重盛について論ぜよ」という課題が出されたことがある。

天皇は現人神であったこの頃、重盛といえば、国民が手本とすべき偉人であった。

「奢れる平氏」である父清盛を必死に諫めて、後白河法皇をお守りした正義の人であり、楠正成などと並ぶ天皇家の忠臣とされていた。

後白河院への忠と、清盛への孝の板挟みに苦悩し続けた善人、というのが、一般的な重盛の印象である。

ところがセチは、

「忠にも孝にも中途半端で、立場を定められない卑怯で情けない奴」

と結論した。

たちまち、呼び出された。

校長の西山績に、説教をくらった。

 

別のある時には、修身の授業で「思想悪化の堰き止め策」を議論したことがあった。

思想悪化とは、この頃に拡大しつつあった、伝統的な忠孝の価値観に抗う風潮のことである。

これまで、まずまずの快進撃を続けた明治日本だったが、多数の犠牲者を出した数年前の日露戦争を経験して、ようやく懐疑的な意見も目立つようになった。

与謝野晶子が書いた「君、死に給うことなかれ」は、わかりやすい例だろう。

まだ明治末期だったが、すでに大正デモクラシーと呼ばれる潮流が現れ始めた時期であり、普通選挙や海外派兵の中止などを訴える民衆運動が盛んになっていた。

婦権運動も、その中に含まれる。

もちろん、政府は、このような動きを好まない。

そのため、教育にもナショナリズムが色濃くなったが、その急先鋒が各地の師範学校だった。

「思想悪化の堰き止め策」を学生に議論させるのも、そうした背景がある。

ここはおそらく、

「国民は陛下の臣民として一致団結し、日本国を盛り立てるのが正しい道である。

私たちは、教育をもって、それを知らしめるべきである。」

などと言えば、無難な答えなのだろう。

だが、そこはセチなので、

「時代の潮流を堰き止めるなど不可能だ。

流れを善いところに導く位が、せいぜい正しい策だ」

とぶち上げた。

また、叱られた。

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第二十話 珍学生(二)

 

或る意味、珍学生だったのだろうが、成績は抜群だった。

血を涙にしながら学問をした、というのが後の本人の弁なので、それはそのはずであろう。

 

しかし、セチにも苦手はあった。

絵が下手だったのである。

ところが、点が足りないと知るや、俄然、絵描き修行を始めた。

月山を、毎日、写生した。

一か月続けて、ついに絵下手を克服してみせた。

 

師範学校におけるセチの頑張りは、生来の負けん気もさることながら、東京で一人、自分を支えるために働きに出たキンの気持ちに報いたい一心だった。

落ちぶれた押切加藤の面目を、新当主のセチが立身することで再び興したい。

そのために、母は喜んで踏み石になろうとしていた。

時代錯誤の滑稽な価値観かもしれない。

だが、セチは自分に向けられた母の思いに、言い様もなく感動していた。

それは、実の母ではないだけに、そして以前の権高な母を知っていたからこそ、尚更であったかもしれない。

セチは、この母が好きであった。

 

この時期、セチは自身に精神的な飛躍を感じ取った。

他人に見えないものが、自分には見える鋭さがあるのを、悟ったという。

これは、学が進んで、断片的な知識が有機的に結びつき、世界がいくつかの法則で動くシステムとして捉えられるようになった時、知識として知らないものさえ解るようになる、という、突き詰めて何かを追求した人が、しばしば経験する現象だろう。

女学校では、町の同級生に怯んで、自身を平均以下と卑下したセチだった。

しかし、もはや自分は決して並みの人間ではない、と確信していた。

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第二十一話 有楽町のシンガーミシン

 

さて、キンである。

 

山形でセチと別れて、単身で東京に登ったキンは、ミシン教師の修行を始めた。

丁度この頃、軍服の需要などもあり、ミシンを使った新しい裁縫が広まりつつあった。

女子の新しい職業として、新聞広告などで大々的な従事者の募集もされていた。

 

キンは、もともと裁縫は得意としていたが、その募集広告を目にして、これで生計を立てようと考えた。

わざわざ上京したのは、有楽町にあるミシン裁縫を教える有名な学校で学ぶためだった。

シンガーミシン裁縫女学院である。

 

シンガーミシン社が日本に進出した時、東京の街中でも和装がほとんどで、洋服は稀にしか見かけないものだった。

そこで、ミシンを販売する傍ら、無料でミシン教師を派遣して使い方を教える、という商売をした。

目論見は当たり、ミシンは急速に普及した。

 

それと同時に、ミシン教師の需要も鰻登りに高まった。

当然、ミシン教師を目指す女性も増えた。

シンガーミシン裁縫女学院は、そのような女性たちが、ミシンの操作法を習うために設けられた。

千人もの定員を抱える大きな学校だった。

キンのような、職業訓練として勉強する未亡人も多かったという。

 

こうして、東京と山形、母娘は別々の天地で、修行の日々を送った。

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第二十二話 母のくれぐれの頼みです(一)

 

セチは、十九歳で迎えた大正二年(一九一三)の春、山形女師を卒業した。

成績は首席で、総代を務めた。

 

師範学校は、授業料はタダだが、服務義務というのがある。

卒業後に、定められた年数を、同じ県下の学校で、教師として奉職しなければならない。

セチは、故郷の庄内にある狩川小学校に赴任することになった。

自身が通った押切小学校から、東にわずか十キロメートルほどの場所にある。

久々に、幼年時代から慣れ親しんだ山河に囲まれて、嬉しかった。

 

ここに母はいないが、親類はいた。

押切加藤は、士分の本家を、衛星のように農民の分家たちが取り囲み、明治以前には順繰り村役人を務めて本家を助けた。

セチの本家は押切から消滅したが、いくつもの分家は健在だったのである。

もちろん、近くの鶴岡には、水野の叔父や妹のマサもいた。

 

さて、狩川小学校は、庄内平野を一望できる小山の上にある。

西洋風の立派な校舎をもつ、地域では屈指の学校だった。

数年前まで、村一番という大男の校長と、大正の今時にチョンマゲを結った小使いの爺さんが名物だったらしいが、今はもういない。

十五年ほど遡れば、後に著名な鬼才軍人・石原莞爾も生徒として通っていた。

そして、もう一人、この小学校にかつて在籍した人が、セチの人生に大いに関わるが、それは後の話である。

 

教壇に立ったセチは、理想に燃えていた。

私は、単に知識を教えるのではない。

私が経験したように、世界の見方が変わるような精神の脱皮に、子供たちを導くのだ。

鼻息を荒くして、そう思っていた。

 

ところが、教え始めてみると、単に知識を教えるところからして、躓いた。

子供に教えるということは、そもそも難しい。

自分が理解するのと、それを子供に理解させるのは、まるで別の事だからである。

生徒に問われて、ひとしきり答えてやっても、怪訝そうな顔をされて、青くなった。

自ら、はたと答えに詰まることもあった。

説明しながら、私の言っていることは本当に正しいのだろうか、と自問してしまうのである。

理想と現実の乖離に、暗澹をした。

 

精神の脱皮に導く、などと高邁な理想を掲げたのはよいが、どうすれば叶うのか、答えが出なかった。

そして、悩んだ。

親切な下宿の大家は、セチが時々思い耽る様子を見て、心配してくれた。

セチも周りで自分を気にかけてくれる人がいることを有難く思い、ついそのことを東京のキンへ宛てた手紙にも書いてしまった。

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第二十三話 母のくれぐれの頼みです(二)

 

しばらくして、その母から返事が来た。

「東京に出て、女子高等師範学校に進学してはどうか」

と勧める手紙であった。

高等師範学校とは、セチが卒業した、小学校教員を育てる師範学校より、上級の教員養成学校である。

卒業すれば、師範学校、中学校や高等女学校など、よりレベルの高い学校で教鞭をとることができる。

中でも、東京女子高等師範学校(東京女高師)は、女子にとって日本最高の教育機関であった。

 

キンは、シンガーミシン裁縫女学院で学び、今はミシン教師として身を立てている。

その学院の院長は秦利舞子といい、キンのような未亡人たちの頼りなさに心痛めて、彼女らの経済的な自立のために開学したという。

当時、日露戦争のため、未亡人が多かったのである。

キンは、秦という女性に感じ入った。

その秦が、件の東京女高師の出身だった。

 

セチは、頭脳は抜群によい。

きっと東京女高師にも、入学を許されるだろう。

もし、セチが今の教師生活に悩むなら、思い切って辞めて東京に来ればよい。

そして、更なる高みを目指せばよいのだ。

 

いやー

セチは、高みを目指すべきだ。

そう考えた。

 

 

だが、母の手紙を読んだセチは、そうすることを渋った。

そもそも、教え方に悩んでいるのは、教師の使命に燃えて、のめり込んだがためである。

その生き甲斐である教師を、辞めるつもりはなかった。

 

母に何と答えよう、と思いながら、教員室でため息をついた。

ぼんやりと校庭に目をやった。

 

子供たちが、擬戦遊戯をしていた。

要は、戦争ごっこである。

日露戦争の勝利以来、日本人は皆、日本の躍進に酔った。

この荒っぽい遊びも、男子の間で大流行であった。

集団を二組に分けて、互いに陣地を築き、奪い合う。

それぞれ頭に紅白の鉢巻きをして、相手に獲られたら戦死、というルールである。

身体の大きい年長の生徒が暴れまわり、弱っちい年少組が逃げ惑う。

看護婦役の女生徒が、取っ組み合いに敗れた子の手当てをしているのが可愛い。

 

セチは、眺めている間に、何に悩んでいたか、一瞬わすれていた。

その時、今、私は幸せだ、と思った。

キンには、このまま教師を続けたい、と返信した。

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解 説

第二十四話 母のくれぐれの頼みです(三)

 

再び、手紙が届いた。

 

「東京へ出て勉強なさい。

人間は若い時できるだけ勉強して置かないと、後になって必ず後悔する時が来ます。

母のくれぐれの頼みです。

どうか、女高師に入るようにー」

キンは、どうやらセチは女高師に進学するのが正しい、と結論したようだった。

並々ならぬ決意で、セチの上京を願っているのが、ひしひしと伝わった。

 

セチは迷った。

理由はふたつある。

 

ひとつは、キンがこれほどまでに推す東京女高師という学校に、好奇心が湧いてしまったのである。

 

もうひとつは、キンを喜ばせたい、という孝行心だった。

正喬の死によって押切加藤が崩壊した時、セチにはまだしも十四歳の若さという救いがあった。

しかし、キンはその時すでに三十七歳、やり直しのきく年齢ではなかった。

その時から、キンは自分の全てを犠牲にしても、セチの立身を図るようになった。

押切加藤の再興を望んだからである。

その母の願いを、セチは叶えてやりたかった。

 

よくあることだが、最初は家のためでも、いつしかセチに尽くすこと自体がキンの生き甲斐になっていた。

セチは、それに深く感謝していたのである。

そもそも、今、教師をしていられるのも、母の支えのおかげなのだ。

ならば、母が望むなら、それも終わりにしよう。

安穏とした狩川の生活には、後ろ髪を引かれた。

だが、ついにセチは東京女高師に行く決心をした。

 

翌春、セチは東京女高師に合格した。

幸い、山形県庁で受験できたので、試験自体は大変ではなかった。

また、高等女学校卒以上が受験資格なので、師範学校で首席だったセチには少し余裕があった。

とはいえ、山形県下では十七人が受験したが、入学が許されたのはセチともう一人だけだった。

 

大正三年(一九一四)四月であった。

狩川の小学校には、わずか一年しか居なかった。

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解 説

第二十五話 東京女高師

 

東京女高師は、女子にとって、日本最上級の教育機関であった。

校舎は、お茶の水にある。

そのため、後に新制大学になった時、校舎は大塚に移転していたにも関わらず、当初の所在を記念してお茶の水女子大学と称した。

現在では、東京医科歯科大学がある場所で、江戸時代には湯島聖堂があった処に隣接している。

丁度、真新しい増築校舎が出来上がったばかりであった

 

女高師には、文科、理科および家事科(技芸科)の三科があった。

セチは、理科に入学し、物理・化学を専攻した。

ちなみに、家事科はミシン教育を担う場のひとつであり、キンが女高師を知った伝手になった。

 

上京したセチは、程近い小石川の借家に住んだ。

嬉しいことに、そこにはキンと妹マサもいた。

離散した三人の母娘が、五年ぶりに、ようやく同居が叶ったのである。

 

初めて体験する大都会の生活を、セチは満喫したように見えた。

全国から集まった才女の中にいて、怯むところはなかった。

 

しかし、さすがに最高学府を誇るだけに、厳しいことはこの上なかった。

期末試験で六十点に満たなければ、問答無用で退学である。

社会主義や共産主義など、大正デモクラシーの潮流に乗った新思想への監視は、とりわけきつい。

何人もの学生が、時に人知れず、除籍されて消えていった。

また、男女関係も監視されており、肺炎を患った時に叔父と偽った婚約者が見舞っただけで、退学になった者もいた。

 

そのような女高師の生活を、まるで軍隊のような息苦しさと言いう者たちがいた。

それとは対照的に、レベルの高い講師たちの授業を夢中で聴き、わずかな余暇を劇場や映画、銀座をぶらついたり、しるこ屋でおしゃべりを楽しんだり、それなりに東京の学生生活を楽しむ者たちもいた。

門限ぎりぎりに遊びから帰って、寄宿舎へ全速力で走る羽織袴の女高師生も、よく見られたという。

学校前の神田川にお茶の水橋が架かっていたが、そこを渡る一高や東大の男子学生を品定めする、というのもあった。

男子の方も意識していたようで、女高師生のことを「菜の花のよう」と言っていたらしい。

もっとも、「遠目に見るときれいだが、近くで見ると大したことはない」という意味だったという。

 

セチは、堅苦しい型に嵌められるのは本来苦手である。

山形女師にも厳しさはあったが、女高師はそれより締め付けられていた。

とはいえ、反動的な学生もいた。

たとえば、文科の研究科にいた河崎なつを初めとした、極端に保守的な女高師の雰囲気に抗う学生たちである。

学校が強いる古めかしい文章に異を唱え、新しい文体や表現を好み、社会運動にも興味を示した。

セチは、そのような学生の方が颯爽として見えて、理科なのに文科の学生と好んで付き合った。

そのうち小説を読み耽るようになった。

その少し浮ついた雰囲気を、化学を教えた平田敏夫などは見透して、後にセチが根気がいる実験に勤しむ科学者になった時には、「君も変わったね」などと茶化している。

 

そうは言っても、セチは大きく羽目を外すことなどなく、真面目に勉強していた。

危険な社会主義や、反動的な運動に、関わることもなかった。

それは、同居する母や妹に迷惑をかけたくないからだ。

そして、卒業後、一段高い教職に就き、家の当主として一家を支える計画を、危険に晒せないからである。

 

ただ、幼い頃に育った環境を懐かしむ習性は、セチにもあったらしい。

土の匂いを嗅ぎ、植物を採取する。

これが、何より好んだ趣味だった。

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解 説

第二十六話 擬戦遊戯(一)

 

四年が経ち、セチは女高師を卒業した。

大正七年(一九一八)だった。

その後、北海道の札幌にある北星女学校に赴任したことは、すでに読者の知るとおりである。

 

この時代に、未開の北海道に住もうとする女子などは、よほどの変人であった。

まして、北星女学校は、就職先としては敬遠されがちな、キリスト教の伝道学校だった。

実際、女高師でも、服務先に北海道を志望する学生は、少なかった。

セチは、それにも関わらず北星女学校を奉職先として選んだのは、給料が一番よかったから、と他人には説明した。

苦労をかけたキンに替わって、今度は自分が家計を支える、という意味である。

それは、真実ではあったが、冒険を求めるセチの好奇心も、大きな動機であったに違いない。

さらに、もうひとつ、セチには北海道に行きたい理由があったのだが、そのことは後に譲る。

 

とは言うものの、セチが札幌に来た年には、札幌はハイカラな地方都市になっていた。

人口は十万人で、現在の二十分の一ほどだが、夏には市街電車も開通し、近代化していた。

中心部は西洋風の建物が多く、異国情緒のある街だった。

 

北星女学校は、セチが生まれる少し前、米国人の女性宣教師サラ・スミスが開学した。

北大の前身である札幌農学校は、「少年よ、大志を抱け」で良く知られているウィリアム・クラークなど、米国人指導者が初期に活躍した。

彼らは、同時にキリスト教の教育も与えた。

そのため、薫陶を受けた弟子たちには、キリスト教に帰依した者が多くいた。

スミスの北星女学校も、そういった札幌の上層階級の支持者を得て、のびやかに活動していた。

北大総長の佐藤昌介も、その支持者のひとりであることは、すでに述べた。

尤も、佐藤の場合は、クラークと出会う以前からクリスチャンだった。

佐藤は、この北星女学校を、男たちと共に北海道の将来を支えるべき女性を高等教育する場と考え、陰日向に援護した。

佐藤と北星の関係は、実に三十年近くを経ている。

この男の女子教育に対する信条は、昨日今日の思い付きではなかったのである。

 

スミスは、人並み外れた植物趣味の人だった。

札幌を象徴する花木であるライラックは、スミスが米国から持ち込んだ株が始祖である。

芝生の校庭と校舎の間に植えられており、まだ新しい米国式で白壁の校舎に、紫の小花は良く映えた。

セチが北星女学校にやってきた時には、老齢のスミスは校長の座を退き、二代目のアリス・モンクが後を継いでいた。

このスミスやモンクの他、数名の外国人教師たちが、この学園に特有のキリスト教伝道学校らしい雰囲気を醸し出していた。

彼女らは、厳格だが慈悲深い徳育を施し、生徒や父兄の尊敬を集めていた。

教師の大半は、この北星女学校の出身者で占められていた。

セチのような、東京の高等師範学校から来る者は珍しい。

生徒には、金持ちの子女もいれば、貧乏人の娘もいた。

北星の女子生徒といえば、星のマークのセーラー服で、今日の札幌市民にはよく知られている。

しかし、この頃は、羽織袴の和装が普通で、椎茸を裏返したような「ひっつめ髪」を結っている。

セチは、学校から程近いところに下宿した。

一人の新任教師として、新生活を始めた。

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解 説

第二十七話 擬戦遊戯(二)

 

再び、教壇に立ったセチだったが、悩ましいことがあった。

化学の授業をした時である。

その日は、「発火点」とは何か、を教えた。

「燃えるものは、あるところまで温度を上げると、自然に火がついて、燃え出します。

その温度を、発火点といいます。」

生徒の一人が、質問した。

「先生、鉄粉の発火点も教科書に書いてあります。

鉄が燃えるのでしょうか?」

「粉にしたり、細い糸にすれば、燃えるのですよ。」

とセチが答えると、

「鍋とか包丁は燃えないのですか?」

「鉄は、温度が高くなると赤くなって溶けるので、燃えないのではないですか?」

と別の生徒が、重ねて問うたので、

「そうですね。良い質問なので、次の授業までに皆さんで考えてみましょう。」

とその場を切り抜けた。

 

しかし、授業を終えて職員室に戻ると、セチは暗然とした。

「答えられなかった。

いや、解らなかった。」

セチが教えたのは、教科書どおりの発火点の定義である。

そのとおりなら、鉄は粉でも鍋でも、発火点の温度になれば火球になるはずである。

だが、粉はそうなるが、鍋は燃えたりしない。

その日、下宿に戻って、よくよく考えてみた。

その理由が、ようやく理解できた。

 

ものが燃えるには酸素、そして発火させるための熱エネルギーが必須だ。

鉄も粉なら、ふんだんに空気中の酸素に触れている。

そして一旦燃え出せば、熱を放出し、近くの別の鉄粉を発火させる。

それを繰り返して、鉄粉は火玉になるのだ。

しかし、鍋のような鉄の塊は、ほとんど鉄は内部に隠れて空気に触れていない。

おまけに鉄は熱を伝えやすいので、どんどん鍋全体に広がり温度が下がる。

火など出そうにない。

要するに、同じ物質でも、状態が違えば発火点はいくらでも変わるはずなのだ。

そして、極端な場合では、発火しないことすらある、ということだ。

 

セチは衝撃を受けていた。

生徒の質問に答えられなかったことではない。

それは、落ち着いて少し考えたら、さほど難しい問いではなかった。

そうではなく、自分が、これまで生徒と同じ疑問をもたなかったことに、打ちのめされたのである。

当たり前に、鉄粉が燃えて、鍋が燃えない不思議を口にした生徒の方が、化学というものを現実に感じている。

私は、理解し易くするために、実際には存在する大切な細部を省略した、標語のような定義を鵜吞みにして、解った気になっていた。

しかし、何も解っていなかった。

狩川の小学校で、子供たちがしていた、あれと同じだ。

擬戦遊戯だ。

女高師を出て、一角のインテリになったつもりだった。

笑止だ。

狩川で教えるのに苦悩していた、あの時から、一歩も進んでいない。

私は、一体、何を学んでいたのだろうかー。

 

さて、セチが北星女学校に赴任したばかりのその夏、札幌は特別に賑わっていた。

北海道開拓の開始から五十周年を記念して、大規模な博覧会が催されたのである。

開道五十年記念北海道博覧会であった。

東京女高師では、二十年以上も前から、毎年、修学旅行を催してきた。

何処へ行くかは、その年によって異なる。

今年は、この大博覧会を見学するため、行先は北海道・東北、最遠地は札幌と決まった。

大挙して押し寄せた後輩たちを引き連れて、先輩のセチは北大見学に赴いた。

そして、「北大は、女子にも門戸を開いています」という佐藤総長の言葉を聞くのである。

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解 説

第二十八話 二度目の教授会(一)

 

大学の夏休みが終わった九月十三日、金曜日。

セチの入学の是非を審議する二度目の教授会が、開かれた。

「座り込み事件」は、すっかり有名になっていたので、関心は否が応にも高くなっていた。

今度は、正科生ではなく、全科選科生という聴講生の身分を求める志願だった。

これは、森本がセチに提案した策なのは、ご存じのとおりである。

 

さて、蓋を開けてみると、あまり旗色は芳しくなかった。

反対派の懸念のひとつは、大学予科を経て入学しなければならない男子学生に対する不公平であった。

女子では最高学府の東京女高師でも、大学予科よりずっと低い程度の教育内容と思われている。

その女子と同格では、納得いかない。

その点、今回は正科生である男子よりも一段低い選科生としてセチを志願させたので、多少気も収まった筈である。

 

しかし、反対する理由はそれだけではなかった。

世間から見れば、正科生も選科生も、大して違わない。

大学予科より劣る女高師から入学を認めれば、北大はその程度の学生を採る格落ちした大学と評価される、と心配した。

また、女の身で、本当に農科大学の教育に堪えうるか、という懸念も依然として払拭されていなかった。

さらに、そもそも女子は、早く結婚して子を産む方が大事で、大学になど行くべきでない、という取りつく島もない意見も、変わらずそこにあった。

 

森本は、反撃に出た。

「東北大では、三名の女子が入学を許され、すでに学士として卒業している。

うち二名は、志望者と同じく、東京女高師の出身だ。

学力が足りない、というのは杞憂だろう。

我校が、選科生としてすら入学を許可しないのは、むしろ見識違いではないか。」

 

だが、すかさず反論が出た。

「女子学生を入れるというので、東北大には、文部省から詰問状が届いたと聞いた。

独立して間もない我校には、危ない橋だ。」

「その三人の後、東北大には新たな女学生は入らなかった。

東北大は、後悔しているのではないか。」

非難轟轟である。

 

その上に、

「それは、東北大でも理科大学の話だろう。

ここは、農学校だ。

実習を考えてみよ。

女子には、無理なものが多すぎる。」

と、追い打ちがきた。

 

ところが、森本は落ち着いて、

「志望者は、男のすることは全部やる、馬にも乗る、と申しております。」

と返した。

ちょっと言いぶりが瓢げていたので、あちこちで吹きだすような笑いが起こり、空気が緩んだ。

少し、間が空いた。

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解 説

第二十九話 二度目の教授会(二)

 

 

すると、植物学教授の宮部金吾が、するすると手を挙げた。

丸眼鏡をかけ、うりざね顔に突き出した口元、それに山羊髭を蓄えた、穏やかな老科学者である。

敬虔なクリスチャンでもあり、セチの勤めた北星女学校の後見人の一人だった。

「実際の心配も重要だが、それ以上に国家経営の高所から、女子学生の帝国大学入学について考えるべきだ。」

と訴えた。

「すでに時節は、女子の大学教育を議論すべき段階だ。

東北大は、三人の女学士を輩出し、ひとつの答えを出した。

独立独歩の帝国大学として、新たに立った我が北大も、自らの答えを出すべきだ。」

宮部は、佐藤と共に、三年ほど前の東北大時代に、大学令の評議に参加していた。

その際、女子の大学教育も俎上にあったため、この問題には造詣が深い。

これには、強硬な反対論者たちも、納得するしかなかった。

 

佐藤は、これを機とみて、

「この場では、是非が定まりそうにない。

調査委員会を設けて、熟議しよう。

結論は、次回の教授会で、委員会の報告を受けてから」

と提案し、了承された。

 

翌十四日、早速、女子入学調査委員会が組織された。

委員は、佐藤が指名した。

 

農学科第一部(農学・園芸・養蚕) 南鷹次郎

同  第二部(農業経済・農政・殖民・財政) 高岡熊雄

同  第三部(植物・動物・昆虫) 宮部金吾

農芸化学科 大島金太郎

林学科  新島善直

畜産科  橋本左五郎

教務部主任 森本厚吉

 

セチは、農学科第三部を志望していた。

農業に携わるのが目的ではなかったので、好きな植物の勉強がしたいがためである。

ということは、そのまま志望が叶えられれば、宮部の配下となる。

そのため、当初は委員長として宮部が推されていたが、利害関係者ということで、南が代役を務めることになった。

 

佐藤は、森本を委員として送り込むことに成功した。

学務に精通した者が必要、というのが理由だった。

七人の委員の中の一人である。

森本の発言力は、強まった。

しかし、依然、セチが入学を許されるかは、見通しが立たなかった。

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解 説

第三十話 川代山の忘れ形見が(一)

 

五年前の大正二年(一九一三)、セチが狩川小学校で安寧な教師生活を送っていた頃、東北大は三人の女子を、正科生として採った。

黒田チカ、牧田らく、そして丹下梅子である。

 

彼女らは、日本で初めて女性の帝国大学生となった。

黒田と牧田は、東京女高師の卒業生で、セチの先輩にあたる。

特に黒田は、実験科学である化学を専攻し、セチと専門が近い。

セチが東京女高師で学生をしていた頃、東北大を卒業した黒田は教官をしていた。

黒田を身近な存在として知っていたので、セチはそれに倣い、躊躇なく北大に志願したのである。

 

その黒田には、長井長義という恩師がいた。

長井は、後に日本薬学の父と言われる東大の教授だが、女高師でも教えていた。

女子の教育にとりわけ熱心であり、東大の学生から過熱ぶりに苦情が出るほどだったという。

長井は、黒田を助教授に採用し、厳しく鍛えた。

そして、東北大が女子に門戸を開いた瞬間、受験を強く勧めた。

また、日本女子大学でも教鞭をとっていた長井は、この大学からも挑戦者を送った。

それが、丹下である。

二人は、見事に長井の期待に応えた。

 

合格は、二人の実力である。

しかし、前例のない新しい社会的試みであるほど、時の実力者の後見が大きな助けになるのは、想像に難くない。

黒田も丹下も、すでに研究者の道を歩み始めた後の東北大入学だったため、長井という後見人を得た。

しかし、セチには、そのような頼れる大学者はいなかった。

女高師を出たての教師は、何の後ろ盾もなく、一人で闘っていた。

 

ところがー

突然、セチに味方する者が現れた。

園芸学教授の星野勇三である。

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解 説

第三十一話 川代山の忘れ形見が(二)

 

女子入学調査委員会の設置が決まった、二度目の教授会の後の事。

北星女学校にセチを訪ねて、一回りくらい年上の、品の良い婦人がやってきた。

星野の妻、いはゑであった。

 

いはゑは、東京女高師の先輩卒業生である。

セチが北大入学を志望して、教授会で審議されていると聞き、会いに来たのだった。

夏に女高師の現役女学生たちが修学旅行で来札した時、歓迎のために卒業生が集合したので、セチとも顔を合わせている。

しかし、言葉を交わす機会はなかった。

そこで、改めて話をしてみて、人物が良ければ手助けしてやりたい、と考えたのである。

 

対面して、いはゑは、セチの庄内訛りに気が付いた。

出身を尋ねると、押切で生まれ育ち、のちに羽黒川代山に移ったという。

偶然だが、星野夫妻も、共に羽黒の出身である。

彼らの実家と川代山とは、わずか数キロメートルしか離れていない。

「では、あの大きな牧農場の主に所縁が?」

セチは、ありのままに素性を話した。

いはゑは、仰天した。

家に戻り、早速、夫にも話した。

 

「悲劇の末路をたどった川代山の忘れ形見が、学問を志して、この札幌に現れた、というわけか。」

星野は嘆息した。

星野は、もともと郷土愛が深く、ずっと同郷人の農学校生たちを援助してきた。

庄内出身の北大生を扶助するための札幌庄内寮も、星野が起こした。

当然、何もせずにはいられない。

翌日、森本を訪ねた。

偶然が重なるが、星野と森本は、札幌農学校の同期生で、とりわけ親しい仲である。

星野は、セチが入学を許された暁には、自分が面倒を見てもよい、と申し出た。

 

森本は、このセチの幸運を喜んだ。

早速、セチを呼び寄せると、星野の申し出を伝えた。

そして、志望を農学科第三部から第一部に変更する気はないか、と持ち掛けた。

第一部には、星野がいる。

セチは、趣味にするほど好きな植物を、専門に学びたかった。

そのため、植物学のある第三部を志望したのだった。

しかし、星野の園芸学ならば、植物を相手にすることには変わらないので、不満はない。

セチは、同意した。

決心して、まっすぐ園芸学に焦点を絞り、志望動機も

「園芸を趣味とするので、その奥義を極めたい」

と書き改めた。

 

さて、決戦の陣容は整った。

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解 説

第三十二話 日本人を育てるのは誰か?

 

女子入学調査委員会が開催された。

 

最初に、委員長の南が、希望学科を農学科第三部から第一部に変更し、特に園芸学を志望する、というセチの申し出を伝えた。

そして、その園芸学の教授である星野がセチの面倒を見てもよい、と内々に伝えてきた、と言い添えた。

委員たちが、少し騒めいた。

セチの入学に、はっきりと賛成も反対も立場を決めていない者の中には、星野が後見すると聞き、それならばと、秘かに賛成に心を傾けた者もいた。

 

「つきましてはー」

南は続けて

「委員長を、宮部さんに交代願いたい。」

と申し出た。

セチが志望先を変更したため、南の第一部が受け入れ先になり、直接の利害関係者となったためである。

宮部は、快く委員長を引き受けた。

 

「先の教授会でも述べましたが-」

その宮部が口を切った。

「細かいことはさておき、どうか日本国の将来のためを第一に考え、大所高所からご議論いただきたい。」

望むところ、と森本が手を挙げた。

英米諸国において、すでに女子は男子と何ら変わることなく、大学教育を受けることができる。

それが趨勢なのは、女子の進出が、国益に叶うと判断されたからだ。

我が国でも、女子の入学は、もう東北大が試みて、成功を見ている。

北大がためらう理由はなかろう、と説いた。

しかし、森本の意見は、セチの入学について議論した最初の教授会から提起されており、みな百も承知だったので、空気は動かなかった。

これまた、何度も繰り返された反論が、噴出した。

 

ところが、この時は、宮部が森本の意見の後を継いだ。

白熱した議論の応酬が、ふっと凪いだ瞬間、

「大学令を審議した時、聞いた話だがー」

宮部が、ポツリと言った。

「東北大に、初めて女学生を送り込んだ長井長義先生の言葉だ。

長井さんは女子の教育に熱心すぎるので、学生が苦情を言ったそうだ。

そうしたら、長井さんは、

『ドイツは、我が国より、ずっと科学も技術も進んでいる。

有名な学者を数多く輩出し、立派な体躯をそなえた独創性に富む国民が支えている。

そのドイツ人を育てたのは誰か?

ドイツの女たちだ。

では、日本人を育てるのは誰か?

日本の女に決まっている。

君らは、我ら日本人を育てる女が、ドイツに負けてよいと思うか?』

と言われたそうだ」

議場は、静まりかえった。

この時、第一次世界大戦はまだ続いていたが、間もなくドイツの降伏によって終わろうとしていた。

この戦争では、日本はドイツと戦い、各地で勝利を収めていた。

日本にはドイツに対する敬意は保たれていたものの、戦勝国の優越感はある。

ドイツの女に負けてよいのか、と言われて、よいわけがない。

 

宮部は、一息ついてから

「長井さんは、ひるんだ学生たちに、

『その日本の女とは、君らがこれから娶る細君だぞ。

そして、育てられるのは君らの子だよ。

私は、学生諸君の未来のベターハーフのために教育しているのだ。』

と畳みかけたら、学生たちはぐうの音も出なかったそうだ」

とニヤニヤしながら言うと、空気が緩んだ。

こらえきれずに笑う者もいた。

 

実は、この論は、なかなか巧妙な論理で出来ている。

セチの入学に反対する一派の心底には、この時代には広く支持されていた良妻賢母の思想がある。

女は、早く嫁に行き、たくさん子を産み育てるべし、という伝統的な家父長制を維持するための考えである。

この思想によれば、婚期や出産を遅らせるので、女に教育は無益有害だ、ということになる。

だが、宮部の紹介した長井の言葉は、笑い小咄のようでいて、良妻賢母論の痛いところを突いている。

つまり、優れた次世代を育てたいなら、母親となる女にも立派な教育がいるではないか、という矛盾である。

このあたりの考えは、以前から同意見の佐藤昌介や新渡戸稲造と議論を詰めており、すでに宮部にとっても持論と言ってよい。

 

この宮部の意見で、大勢は決した。

「では、何とか入学できるように、考えてみますか。」

との声に、もはや異を唱える者はいなかった。

雰囲気は、セチの入学を許す方向に傾いた。

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解 説

第三十三話 実験するべきだ

 

「それなら、いっそ、正科生として、入れてみてはどうか」

という意見が上がった。

セチは選科生とはいえ、全科受講を志願している。

内容でいえば、正科生と何もかわらない。

なにより、元々は正科生として志願していたのだ。

 

森本は、はっとした。

一足飛びに、そこまで行けるなら、願ってもない。

しかし、明らかに女学生採用の肩をもっている自分が、真っ先に賛同すれば逆効果か、と思い、息をのんで成り行きを見守った。

 

さすがに、これには危惧する意見が出た。

「実際、女子が、我が校の教育に脱落せずに付いてこられるか、まだわからない。

東北大の場合と違い、ここは農学校で、困難な実習が多い。

それに、授業は、基礎の自然科学から実地の作業技術、果ては経済まで幅広い。

予科の教育を受けていない女子には、厳しいだろう」

これはこれで、もっともな話であった。

 

「では、やはり女子に正科生は無理ですか?」

「いや、わからない。

おそらく、女子に適した分野というものも、あるだろう。

しかし、今はわからない」

 

そこで、再び宮部が口を開いた。

「私は、今はわからないと認めて、試せばよいと思う。

私たちは学者なのだから、実験するべきだ。

女子が、果たして我が校の学生として、男子に遜色ない存在たりうるかどうか」

一同、宮部の考えに賛同した。

 

結果、当面は、女子は選科生としてのみ採用可として、正科生には志願を認めない、との方針で一致した。

選科生ならば、万一、落伍する授業があっても、それは諦めればよい。

もし、幸いにして、全科を征服できたなら、その時こそ、女子に正科生への道が開けるだろう。

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解 説

第三十四話 エルム(一)

 

九月一八日、女子の入学について審議するために、三度目の教授会が開かれた。

セチの北大入学は、ついに認められた。

もちろん委員会の勧告に多くの教授たちが従ったためだが、それでも出席者一九名のうち五名の賛同は得られなかった。

十四人の賛成者のうち七名が委員会のメンバーだったことを考えると、女子の入学には、なお根強い反発があったわけである。

セチは、志願どおり、全科目を履修する全科選科生として採用された。

女子の入学は、選科生に限定されたので、女子受験生の学歴不足に対する男性側の不満も、とりあえず棚上げになった。

 

面白いことが、ふたつある。

ひとつは、選科生は欠員があった時のみ採用、という規定があったにも関わらず、入学が許可されたことである。

実は、セチの志望する農学科第一部は、正科生だけで、すでに定員オーバーになっていた。

もうひとつは、最初に正科生として志願した時には、頼んでも受けさせてもらえなかった検定試験が、課されもせずに合格した、という事実である。

いずれも、

「セチの採用は、大学に必要な実験だから」

という理由からだった。

 

夕刻、審議の結果を聞きにきたセチに、森本は入学が許されたことを告げた。

励ましの言葉を受けた彼女は、初めて笑顔を見せた。

これまで、森本はセチに、何か怖いような印象を持っていた。

その目に、何か底の知れない深さを感じていたためである。

しかし、この時は、ずいぶん幼い娘を見ているかのようだった。

これから始まるセチの学生生活が、幸せであることを祈らずにはいられなかった。

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解 説

 

第三十五話 エルム(二)

 

帰り道、セチは、大学の校舎を外から眺めてみた。

これから、男ばかりの農学校に、女ひとりでやって行かねばならない。

予科の教育が無いことも、男用に作られた実習のカリキュラムも、心配せねばならなかった。

しかし、今は、勝利の麻薬が効いていて、何の不安も感じない。

 

米国式の白く塗られた木造建築が、並んでいる。

その周辺に、立派なハルニレの木が、芝生の中に点在していた。

この木は、英語名からエルムとも言う。

セチの故郷、山形庄内でも見かけた樹木だった。

しかし、同じ木でも、違って見えるものだな、と思った。

ただ一本ずつ植えられたエルムは、何者にも邪魔されずに枝々を伸ばし、上にも横にも矯められることなく、均整の取れた本来の形を現していた。

見ていて、清々しかった。

 

しばらくの間、ただ、エルムを眺めて佇んだ。

北大には何度も足を運んだが、いつも入学を許可してもらうために、どう戦うか、頭がいっぱいだった。

そこにエルムは、ずっとあったのだが、見えてはいても、見てはいなかった。

 

「綺麗な・・」

と独白しかけて、ふと

「美人すぎて、科学者には向かない」

と言われた時のことを、思い出した。

思わず、その時のむかつきが蘇った。

 

不意にー

叔父の順次郎の顔が、頭によぎった。

幼いころ、大人の腕力で子供を支配しようとするこの叔父に、よく反抗しては、折檻されて土蔵に押し込められた。

土蔵は、黴臭く、墓にいるようだった。

だが、セチは、許されて外に出る、その時が楽しみだった。

記憶に残るのは、気持ちのよい季節のこと。

下女に促されて扉を抜けると、柔らかい陽が当たり、影が蘇る。

暖められた土や草木の香り。

昼餉の支度をする人の気配。

その瞬間は幸福で、土蔵に籠ってよかった、とすら思えた。

思えば、父を亡くして故郷の家を失くして以来、ずっと土蔵から抜け出すために、一歩一歩、出口に向かって歩こうとしていたような気がする。

(なるほど、今、私は土蔵を出たわけだ)

エルムを見上げながら、そう思った。

気障な感想かと、ちょっと自省したりもした。

 

長く足を止めすぎたな、と我に返り、下宿への帰路についた。

少し遠回りして、駅前の五番館百貨店に寄った。

新しい便箋と封筒を、買った。

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解 説

第三十六話 ちょっと可哀そうな者

 

九月一三日、北海道の地方紙である「北海タイムス」は、北大に第一号の女学生が採用された、と報じた。

記事は、教務部長・森本厚吉の談話を、次のように掲載した。

「英米では、女子が大学教育を受けるのは、男子といささかも変わりない。

しかし、我が国においては、未だに方針は定まっていない。

特に、農学では多くの実習が課されるので、女子が耐えうるか判断が難しく、何回も教授会を開いて検討した。

その結果、今回はとりあえず選科生として入学を許可することにした。

これをもって、北大の門戸は、婦人にも開放され、大学は新たな一歩を踏み出した。

しかし、正科生として採用できるかは、まだ決めかねている。

もちろん、本人は選科から正科に進み、日本で最初の農学士になることを志しているが、その希望が叶えられるかどうかは、今後の検討次第だ。

また、農学の実習は、婦人に適した科目を選ぶ必要がある。

現在は選科生なのでその必要はないが、将来、正科生に昇格した場合は、それも解決すべき課題となるだろう。

とにかく、我が大学は、婦人に門戸を開放し、今後も入学志願者を募る方針である。」

 

 

「記事は、読ませてもらった。

今回の一件、森本君には、苦労をかけた。」

居室を訪ねてきた森本を、佐藤はねぎらった。

「いえ、佐藤さんの業績ですよ。

夏に佐藤さんの言葉があってこそ、彼女は志願したのですから。」

と森本に言われて、佐藤は苦笑した。

「そういえば、そうか。

だが、選科生でしか採れなかった。」

「北大で、女子教育の嚆矢が放たれたのです。

喜んで、いいじゃないですか。」

「うん、そうだな。」

佐藤は、嬉しいような困ったような顔をした。

「とは言え、加藤セチも、これからが大変だ。

正科生に昇れるか、今後の出来次第だ。」

「将来、女子学生の入学が続くかどうかも、ですね。

挫折せずに、女子でもやれる処を、見せてくれるとよいのですが。」

「ふふっ。

そこは、ちょっと、いい予感がある。

なにせ・・」

佐藤は、ニヤリとした。

「座り込みの君、だからな。」

 

かくして、北大で初めての女学生が誕生した。

味方となって奔走してくれた森本には、後年にいたるまで、セチは恩義を口にした。

佐藤は、あまり感謝されなかった。

 

(第一部・終)

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