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加藤セチは、大正の頃、札幌農学校創立以来はじめての女学生として、東北大から独立したばかりの北大(北海道帝国大学)に入学した。
美人と謳われ、アイドル的な扱いを受けたが、ずいぶん虐められもしたらしい。
生まれは山形の大地主で、使用人に傅(かしず)かれる「おひいさま」だった。
しかし、やがて実家は破産し故郷も去らねばならず、持てるものを失う苦しみを味わった。
その果てに、精神の高みを追求することに生きる誇りを見出し、研究者への道を歩む。
そのきっかけを与えたのが、北大での日々だったという。
以後は、駒込の理化学研究所(理研)に初の女性研究員として採用、主に分光分析で業績をあげた。
その後も、家庭婦人として初めて理学博士号を受け、女性初の主任研究員、と女性第一号の記録を次々に打ち立てた。
現在、理研では、女性研究者の育成する助成制度を「加藤セチ・プログラム」と名付けている。
十三年前、私は父を肝がんで亡くした。
手術のあと、一週間ほどベッドサイドで、付き添いをした。
時間を持て余して、よもやま長々と父と話をした。
その時、セチについて初めて聞いた。
「昔、親類に女性の科学者がいた」というのは、朧げに知っていた。
だが、父は理学部、私は薬学部と、学部は違えども、セチが同じ北大の農学部出身とは迂闊だった。
その後、興味が湧いて、セチについて調べるようになった。
驚いたのは、私が過ごした多くの場所が、セチと重なっていたことだった。
セチは、北大で学生をしながら教師として北星女学校に奉職したが、私は院生の頃、そこで礼拝のためのオルガン奏者を務めていた。
私は北大で修士を終えた後、東京医科歯科大学の博士課程に進んだが、そこはセチが卒業した東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)があった場所だという。
おまけに、当時、私は練馬あたりのアパートに住んでいたが、セチはすぐ近くの豊島園界隈が住所で、しかも最晩年ながら存命中だった。
そして、なにより私も研究者として生きてきた。
運命を感じた、というほどではないが、ここまで共通点があると、とことん調べて理解したくなった。
セチについて調べ始めて、しばらくして困ったことがあった。
彼女が、どうにも好きになれなかったのである。
関係する記録を頭の中で集積して出来上がった人物像を、自分の知っている女性研究者の類型ではどれになるだろうか、と考えた。
そうしたら、「親が有力者で、どんな相手にも引け目を感じず、相手の感情など気にせずに言いたいことをずけずけ言う」嫌なタイプが浮かんでしまった。
少し、意欲が鈍った。
だが、それでも調べを進めてみると、セチが少女時代を回顧した一篇の文章を見つけた。
セチには、武勇伝のようなエピソードが多い。
しかし、その小文には、十代までの多感な時期に、自分はみすぼらしく、愛らしくもなく、能力もないと感じていた、と飾り気なく心情が綴られていた。
その時、最初の印象のような単純な人物像では説明できなかったエピソードの細部が、妙に納得できた。
ようやく、私はセチが好きになった。
調べが進んで、セチが身近な知り合いであるような錯覚を時々おぼえるようになってから、本を書きたい、と思うようになった。
彼女は、同じ理研で活躍した池田菊苗や鈴木梅太郎のような大科学者ではない。
しかし、女性研究者の草分けだったので、ジェンダー社会学の対象として、意外と詳しく研究されている。
だから、分野の専門家をさしおいて、学術的な何かを付け加えようとは思わない。
私が残したいのは、セチの人生をわかりやすく綴った物語である。
物語と、それを史料と対比した解説の二編一対を予定している。
2022年2月26日
加藤祐輔
(北大農学部同窓会誌への寄稿文より、抜粋)