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物語について

 

「気軽にスイスイ読める」を、最優先にした。

予備知識が無くても読めるように、背景や意義の説明には文字を割いた。

 

また、本編は物語だが、史料として読みたい方も、居られるかもしれない。

そこで、解説も付録することにした。

 

 

本編の物語では、論文のように、確度の高い記録だけをつなぎ合わせても、スムーズに話が流れるようにするのは難しい。

臨場感を出すためには、推測や想像で、その間を埋める必要があった。

 

記録された事実は、可能なかぎり盛り込むことにした。

また、解説では、過去の文献の誤りや、相互の矛盾についても指摘した。

最近の書籍デジタル化のおかげで、これまでのセチ評伝には引用されていない文献もいくつか発掘できた。

加えて、私や共同で研究している幾人かはセチの縁者なので、内輪で伝えられている情報もいくらかある。

それらは本編、もしくは以下の解説に補足情報として記載した。

今後も、新たな記録が見つかる可能性があり、修正や追記をするかもしれない。

 

推測は、論文に掲載するには証拠不十分で書けないようなものも、あえて採用した。

解説には、その根拠をできるだけ記載した。

 

具体的な会話や、場面の細部は、もちろん記録にはない想像である。

人物のプロファイリングと置かれた状況をもとに、不自然にならないよう留意した。

 

 

以下の解説では、各話の項目ごとに、事実、推測および想像の別を、できるだけ明らかにした。

また、本編では省略した詳しい背景を書いた箇所もある。

文献は、まとめて別に一覧にした。

画面上部のメニューから、参照できる。

トップページの写真について

(中央)加藤セチ、42歳当時の肖像(科学知識 15(9)、1935)

(左右)義母キンの刺繍作品。理化学研究所所蔵。筆者撮影。

 

30-40歳代のセチには、確かに現代でも「美人」といわれて通用しそうな写真は、いくつかある。

ただ、解像のよいものが、入手できていないのが、残念である。

 

キンの刺繍は、植物の質感と、色彩の渋みが、何となく人柄を表すかー

 

第一話 美人すぎて(一)

 

佐藤昌介の東北弁について、

「お話は下手で、東北弁のズーズ弁で、ノートするにも「ジ」と「ズ」を区別出来ぬため、ノートは後で訂正整理しないと意味がとれぬところが間々あるという有様でした」

と、当時の教え子が回顧している[1]。

 

佐藤とセチが、直接に対話した記録はない。

ただ、佐藤は総長であるとともに、普段から学生とも交流がある教官の一人だった。

談判を求めて、大学に何度も足を運んだセチとは、対話があったと考えるのが自然だと思う。

 

第二話 美人すぎて(二)

 

物語のタイトルでもある「美人すぎて」は、

「美人すぎるから大成はのぞめないと思うが、初めてのことでもあり、ためしに」

というのが、文献の正しい記載である[2]。

九月十八日、セチの入学が認められた三回目の教授会での意見とされているが、ただの噂程度の話かもしれない。

似たような格言は、囲碁将棋の世界などには後まで残っており、その解釈を物語では採用した。

 

第三話 美人すぎて(三)

 

セチのおおよその経歴については、前田侯子女史の論文を参照されたい[3]。

 

また、東京女高師の詳しい修学旅行記が残されている[4]。

 

第四話 天機かもしれない

 

佐藤昌介については、ご子息の佐藤昌彦氏の著作が詳しい[5]。

 

佐藤の女子教育観、およびセチの北大入学の顛末については、山本美穂子女史が詳細に研究されている[6]。

記録されている事実については、ほぼ山本女史の論文に典拠した。

第五話 ただのゼスチュアだったのですか?

入学が許されない理由として、

「女子の最高学府といったところで、たかだか中学に毛が生えた位のもので、とても追い付いて行けないだろうという危惧から」

とセチ自身が回顧している[7]。

セチの眼力の強さについては、多数のセチの写真から受けた筆者の印象が主な根拠である。

また、後年になるが、

鋭い眼光の持ち主で、頭も切れる。」

という評がある[8]。

なお、上記文献8では、「加藤千世」と誤記されている。

同様に、「加藤チセ」と間違えられている文献が、かなり多く見受けられる。

 

第六話 座り込み

佐藤の森本に対する信頼の厚さについて、一次資料ではないが、

「(森本が)北大を辞めようとするんですけれども、当時の総長であった佐藤昌介がなかなか許可を出さないんですね。

この総長の補佐役で森本厚吉は尽力するんですが、その補佐役がまた非常に素晴らしかったもので、佐藤昌介は放さないんです。

写真がいろいろ残っていますが、最前列のどまんなかに佐藤総長がおり、森本厚吉はそのすぐ横におります。

佐藤昌介は非常に森本厚吉も可愛がったんですね。」

との談話がある[9]。

セチの座り込みについては、セチの愛弟子である山本喜代子女史の回顧録に、

「一か月も学長室の前に座り込み」

とセチから聞いた、とある[10]。

さすがに一か月はなさそうな気がするが、座り込みは事実らしい。

おそらく、志願から採用まで、北大に日参するくらいのことはしたのだろう。

 

北大農学部の山口哲夫氏には、セチ自身が

「佐藤先生の処に談判に行った」

と語っている[11]。

 

第七話 澱んだ豆かす(一)

 

セチの入学を審議した3回の教授会について、詳細は残されていないようだ。

誰が何を発言したか、具体的な議論の内容はどうだったか、など全て不詳である。

この物語では、見てきたように会議の内容を書いているが、それらは当時の女子高等教育に対する議論の事例を基にして、記録に残されている教授会・委員会の結論と整合性をとりながら、推測したものである。

 

セチの入学に反対する理由の第一は、

「婚期や出産を遅らせるので有害で、良妻賢母の教育に反するから」

と書いた。

八田三郎は、セチ入学の二年後に、

「大学教育が晩婚の原因となるは著しい事実」

「晩婚は民族増殖の率を低下せしめるもので、即ち民族自殺の一因であることを思ふ時、女子の高等教育は当然呪ふべきものである」

と講演してるので、当然、この教授会でも同様の主張をしただろう[6,12]。

なんとなく、家畜と同様に、繁殖の観点から人間を見ているようで、面白い。

また、八田について、

「誠に野人で、口が悪く、講義中に他の先生をやじり、学生を大笑いさして、講義を倦ませぬ才能を持っておられました。」

と教え子が評している[1]。

第八話 澱んだ豆かす(二)

 

冒頭の、女子が入学を志望したことに対して学生が嫌味を叫ぶ場面は、筆者の創作。

 

佐藤は、女子の大学教育を推進したい考えなのは、上述のとおり。

しかし、欧米における女性の進出について、

「之は畢竟教育が行き届いて居るからである。

我が国では到底さう云ふやうに教育をする事は今暫らくの間は行はれない」[6,13]

また、米国の大学について

「男子と女子との関係も極めて潔白なるものであって心配ない」

「日本の学校は却々心配である。

之が男女同一の大学で勉強するやうになれば、一層取締を要することであるから、

我が国では当分さう云ふ機運は到来せぬ」

と述べている[6,14]。

男女の風紀問題で、共学は時期尚早と判断したのだろう、と山本美穂子女史は解説している[6]。

 

「同じ家に暮らしながら、家長や長男は美食を楽しみ、女はまるで異なる貧相なものを食べ、サンマ一匹まるごと食べるなど夢にみるほどの贅沢」

という挿話は、セチの女高師の先輩である河崎なつの伝記に書かれた実話を借りている[15]。

 

「できる女を男が好まない、という理由から、嫁し遅れるのを恐れて、女が上級の学校に進学するのを許さない家庭も多い」

は、大正期の東京女高師を卒業した女性たちが多く述べた、当時の事実である[16]。

女子の高等教育は家族制度を破壊する、という論は、昭和六年(1931)ごろ、東京女高師が大学昇格を検討された時にも根強く主張されており、古くから官民双方にあった考え方だったとされている[17]。

第九話 作戦変更(一)

 

入学が審議されている期間中に、森本とセチが、直接対話していた記録がある[18]。

 

その際、

「男の学生がすることは、何でもやります。

馬にだって乗ります」

とセチが言ったとされている。

第十話 作戦変更(二)

北海道帝国大学農学部の選科制度、選科生から正科生への昇格については、山本美穂子女史の研究に詳しい[19]。

第十一話 落日の赤(一)

押切加藤が開拓した川代山牧農場の盛衰については、詳しい経緯が残されている[20]。

 

明治天皇の押切行幸についても、詳細な記録がある[21]。

 

 

第十二話 落日の赤(二)

 

ヨシと津田梅子の交流は、加藤正三郎・健一両氏の提供による、身内の伝聞。

 

明治庄内大地震における押切加藤本家の被災については、町史におおよその記載がある[22]。

 

 

第十三話 石垣の穴(一)

 

 

キンに関する描写は、セチ本人の随筆、および本人への取材に基づく過去の小伝を基にした[23,24]。

なお、文献23は、本人の随筆ではあるものの、

「女高師から“東北理科大学”へ」

など、自身ならば間違えるはずのない誤記載があり(黒田チカらと混同したと思われる)、編集者などによる改変が疑われる。

また、文献24は、セチ自身への取材に基づくと思われるが、ところどころ執筆者の創作と思われる箇所がある(たとえば、3度目の教授会を待つ描写では、「春から、初夏を迎えようとしていた」とあるが、実際には9月である)。

これらの文献は、そこにしか記載されていない貴重な情報が含まれているが、項目ごとに取材した情報もしくは創作の別を検討して、採否を決めた。

 

叔父との対決、姉妹に対する引け目、および地震時の大胆な行動は、セチ自身の随筆から採取した[25]。

自ら土蔵に入るなどのエピソードは、戦前のセチ評伝にも記載がある[26]。

また、押切加藤の分家である加藤直右衛門(一郎)氏は、

「(セチは)小さいころは、負けず嫌いだったようですね。」

と談話を残している[33]。

 

 

第十四話 石垣の穴(二)

 

 

標題にも採用した「石垣の穴」も、セチ自身の随筆に書かれたエピソードである[25]。

 

「清正が先祖」と伝えられる場面は、同様の口伝を受けた筆者自身の体験に基づく。

もっとも、筆者の場合は、家外秘にする理由として、

「東京の叔父が、小学校で

“俺は、清正の子孫だ”

と自慢して、嘘つき呼ばわりされて、いじめられた。」

という話がついた。

子供に口止めするには、よいアイデアだと思う。

 

加藤清正は肥後熊本の藩主であったが、息子の忠広は罪に問われて庄内に流された。

秘かに男女二人の子をもうけたが、その女子が押切加藤の初代とされる人の妻となった。

将軍家光は、忠広の血統を絶やすように厳命していた。

この口伝が、後々まで家外秘とされたのは、幕命に背いて清正・忠広の血を残すことを見逃した藩主酒井家が、不忠に問われるのを防ぐための遠慮と思われる。

維新以後は、別に秘密にする必要もないと思うのだが、今日まで他言無用とされてきた。

地理的にも隔絶され長く交流が途絶えていた三つの押切加藤の分家(共同で調査している加藤正三郎・健一氏、敦・淳氏、そして私)には、いずれも同様の「加藤清正流伝承」の継承があり、江戸中後期より以前から続いているようだ。

セチが同様の口伝を受けた記録はないが、可能性は高いはずである。

残念ながら、明治庄内大地震による火災と盗難、金策のための売却などによって、物証はすべて失われており、家系図も神戸空襲で焼失した(加藤正三郎・健一氏、私信)。

この伝承を学術的に証明するのは、もはや難しいだろう。

いずれにせよ、正史には残りようもない、裏の歴史の話である。

 

ちなみに「加藤清正流伝承」は初代の妻の由来だが、男の方には「木戸駿河守伝承」が別にある。

室町期の鎌倉公方に木戸(城戸)という側近があり、戦国期には上杉の客将となった木戸元斎がいた。

一時、鶴岡の城代として庄内一帯を治めたが、関ヶ原を境に失脚、その子孫が再び庄内に戻って押切加藤になった、という話である。

こちらは家外秘ではなく、学術論文にも採取されている[27]。

 

さて、物語では、セチは家の由来にまつわる口伝を受けて

「偉いのはご先祖なのに、子孫がチヤホヤされるなんておかしい。」

と返したが、これは後年の言葉である[28]。

少女のセチが同じ考えだったかはわからないが、大人のセチは自分のルーツや親類の功績には全く興味のない人だったようだ(加藤淳氏、私信)。

嬉々としてセチのことを書いている筆者は、ぺろりと舌を出すのみである。

 

赤川の水泳および小学校の飛び級[24]、キンの水仕事[23]は、前出の小伝に記載がある。

飛び級については、別の資料の記載とも符合する[29]。

第十五話 素裸の自分

 

 

鶴岡高女におけるセチの心情は、前出のセチ自身の随筆を基にした[25]。

描写は、できるだけ、セチ自身の表現をそのまま用いた。

「その六は数の上では八に未だ劣ったとしても、目に見えない色合いは遥に立ち勝るのだ。」

など、なかなか上手い語り口だなあ、と思う。

 

 

第十六話 深く泣きくれているのである(一)

 

 

この回で記述した出来事は、おおよそ過去のセチ評伝にもあるとおり[3,24]。

 

キン、セチおよびマサの母子三人は、押切加藤の破産後、とりあえず鶴岡にあるキンの実家に身を寄せていた[20]。

 

 

第十七話 深く泣きくれているのである(二)

 

 

文献26には、

「叔父の計らいで山形女子師範に送られた」

と書かれている。

当然、身を寄せていた母方の叔父である水野重慎のことだろう。

水野重慎は、川代山開拓を記念した川代山顕彰碑文を、後に起草している。

 

山形女師の後身である山形大学に照会したところ、セチの卒年は大正2年(1913)であり、入学は明治42年(1909)4月となる[30]。

鶴岡高女を3年で中退したのは明治41年(1908)なので、約1年ほど空白がある[29]。

父の正喬が亡くなったのは8月なので、数か月から半年は山形高師を受験するための準備期間はあったと思われる。

 

標題および最後にある、庄内を去るにあたりセチが述懐した言葉は、前出のセチ随筆から引用した[25]。

 

 

第十八話 武家の倫理

 

山形まで至る道程は、筆者の推測である。

第二十二~二十四話の舞台である狩川小学校の生徒たちが、ほぼ同時期の明治43年(1910)に修学旅行で山形へ行った際、この行程を利用している[31]。

 

山形女師を受験するセチに同行し、合格を見届けてからキンが上京する過程は、セチ自身の随筆による[23]。

 

キンの実家である庄内藩水野家については、各種史書やweb上に多く情報があるので、参照されたい。

 

 

第十九話 珍学生(一)

 

 

山形女師での生活については、唯一、文献26にまとまった記載がある。

当時の校長である西山績に取材したと見られ、「平重盛」「思想悪化」も西山自身が関わったエピソードと推測される。

 

 

第二十話 珍学生(二)

 

「血を涙にしながら学問をした」

の出典は文献25。

 

苦手な絵を克服したエピソードは、文献26では鶴岡高女での出来事のように書かれているが、山本喜代子女史の記憶では師範学校時代の思い出とされる[10 ]。

図画指導のためと思われるので、おそらく後者が正しいと思う。

 

「精神的な飛躍」

「もはや自分は決して並みの人間ではない」

は、セチ自身が同様の文章を、随筆に書き残している[25]。

 

 

第二十一話 有楽町のシンガーミシン

 

キンが通ったミシン学校は、有楽町にあったとセチの随筆にある[23]。

山本美穂子女史は、シンガーミシン裁縫女学院であろうと推測しており、おそらくその通りであろう[32]。

 

 

第二十二話 母のくれぐれの頼みです(一)

 

押切加藤には、江戸時代の享保の頃にわかれた、多数の分家がある。

その多くは、セチの本家が移転した後も、押切にかわらず存続していた。

 

文献3では、狩川小学校はセチの父・正喬が敷地を寄付した学校とあるが、旧地主は無関係の人である[31]。

おそらく、セチが生徒として通った押切小学校と混同したのだろう。

 

狩川小学校の描写は、卒業生が明治大正期の思い出を書き綴った文集を基にした[31]。

多くの作文に、大男の服部正悌校長、ちょんまげ頭の小使・秋葉茂右衛門の思い出が綴られており、本筋とは関係ないが、敬意をこめて書かせていただいた。

また、この文集には、石原莞爾の同級生が、狩川小学校における彼とのエピソードを書き残している。

 

狩川小学校に奉職した時期に、セチが教え方に悩んだことについては、

「加藤さんが下宿した家の人から、どうしても子供に教えることができないと悩んでいた、と聞いたことがあります。

教育とは知識を伝授するのではなく、人間をつくるものだと考えていたようです」

と元・三川町町長である折原猛一氏が談話を残している[33]。

 

 

第二十三話 母のくれぐれの頼みです(二)

 

 

キンが、秦利舞子を通じて東京女高師を知ったというのは、筆者の想像のひとつに過ぎない。

東京に在住していたならば、女高師の存在や社会的地位は、自然に耳に入ったであろう。

ただ、当時のミシン裁縫技術を教育する場として、東京女高師も一翼を担っており、ミシン教師のキンが女高師に興味を持つには、ありそうな道筋ではある。

 

擬戦遊戯は、前出の卒業生が書いた作文に、当時とても盛んだった遊びとして多く登場する[31]。

物語の場面は創作だが、セチが擬戦遊戯を見物する機会は、おそらく多かっただろう。

 

 

第二十四話 母のくれぐれの頼みです(三)

 

 

標題でもある

「母のくれぐれの頼みです。」

は、セチ自身の随筆にある文章をそのまま引用した [23]。

 

当時、東京女高師は、山形県庁で受験できた[16]。

セチと一緒に、山形県下では17人が受験したが、入学が許されたのは2人だけだった[24]。

 

前述のように、山形大学同窓会の記録によれば、セチの山形女師の卒年は大正二年(1913)である。

理研に遺されている大正十一年付けのセチの履歴書にも、「大正二年三月二十七日卒業」とあるので、間違いない。

一方、東京女高師の入学は大正三年(1914)である。

したがって、狩川小学校に奉職したのは、わずかに1年である。

文献3には明治四十四年(1911)に卒業したと書かれているが、記録とは一致しない。

この文献で出典が明示されていない部分の多くは、山本喜代子女史からの伝聞と思われる。

山本喜代子女史の回顧録では、狩川小学校では服務義務として3年奉職した、とあるので(おそらく北星女学校での奉職期間と混同したための誤り)、その情報を基に逆算したのだろうと思われる[10]。

 

 

第二十五話 東京女高師

 

 

東京女高師に在学中の記録は乏しいが、わずかに戦前の小伝に

「理科に籍をおきながら文科の生徒ばかりとつき合って、生まれて初めて小説類を読むことを教へられ、未知の世界が彼女の前に開けた。」

との記載がある[26]。

東京女高師の学生は、基本的に寄宿舎生活だったが、近隣に自宅を構える者などは、特別にそこから通学することも許可されたようだ(お茶大・長嶋氏私信)。

 

また、セチは先輩の河崎なつについて、

「胸を張り、巾広い肩で風を切って通り過ぎられるのを、道を避けて、何年も何年も見送ってきた」

と、後年に回顧している[34]。

 

当時の東京女高師の様子については、主に卒業生などの回顧録に拠った[15-17]。

 

 

第二十六話 擬戦遊戯(一)

 

 

「この時代に、未開の北海道に住もうとする女子などは、よほどの変人」

は、セチと同じく東京女高師を卒業して、小樽の高等女学校へ赴任した河崎なつの伝記にある[15]。

また、女高師では服務先に北海道を志望する学生は少なかった、と卒業生が証言している[17]。

 

当時の北星女学校については、学校史のほか、卒業生の回顧文集などから取材した[35-37].

 

文献24には、

「学生と一緒の寄宿舎に住み」

と記載されているが、北星学園に照会したところ、その形跡はなかった(矢島あづさ女史、私信)。

住所も判明しているので、近くに下宿していたのが事実だろう。

 

 

第二十七話 擬戦遊戯(二)

 

セチがこの頃を回顧して、

「女高師を卒業して、北海道のミッションスクールの女学校に行きましたが、教壇に立ってみて、つくづくと力がないことがわかりました。

教えることができませんでした。

発火点ということ一つわからないで、何をならってきたのかと思いました。」

と、述懐している[38]。

 

また、

「私は大正七年女高師の理科を卒業し、一角のインテリになったつもりで教壇に立ったのであるが、その途端に自信が根底から崩れさったのである。」

とも書き残している[7]。

第九話でセチが森本に語った内容は、この一文に基づく。

第二十八話 二度目の教授会(一)
第二十九話 二度目の教授会(二)

 


前述したように、セチの入学を審議した教授会で話し合われた内容の詳細は、明らかでない。

はっきりしているのは、以下のとおりである[6]。

①    正科生として志望したが、最初の教授会で却下された。
②    全科選科生として志望しなおしたが、2回目の教授会でも結論はでなかった。
  「其例ナキヲ以テ更ニ委員ヲ設ケ慎重ナル調査ヲ遂ケルコトトナリ」
       として、女子入学調査委員を選任し、詳しく議論させた。
③    3回目の教授会では、女子入学調査委員会の決議を受けて、ついにセチの入学を許可し

        た。
    「女子入学許否ニ対スル件ハ、委員長宮部教授ヨリ、女子ハ選科ニノミ入学ヲ許可スル

         モ、正科トシテ許可セサルコトニ、委員会ノ決議ヲ報告セリ。
         就テ、加藤セチヲ全科選科入学ヲ許可スルノ可否協議ノ結果、出席者十九名中可トス

         ル者十四名、即チ多数ナルヲ以テ、許可スルコトニ決定ス。」
    (句読点は筆者加筆)

物語では、教授会の議論の様子を具体的に描写してある。
ただし、これも前述したが、この描写は、学内外で提起された論点をもとに、上記の教授会の結論および第三十六話に出てくる新聞に掲載された森本の談話と整合性をとりながら、筆者が推測したものである。

宮部は、女子高等教育に対して肯定的であった。
北星女学校への長年の貢献、およびセチに続く北大女子学生第2号である本間ヤスの指導を引き受けたことなどが、それを裏付けている[6,35]。
ただし、宮部は大学令案の審議に参加した際、女子の大学入学について、志望者数や大学の収容能力が許せば認める、という制限的な案に賛成していたことは注目される[6]。
物語では、以上を勘案して、宮部の発言内容を推測した。


 


第三十話 川代山の忘れ形見が(一)
第三十一話 川代山の忘れ形見が(二)

 


黒田・丹下の東北大入学にあたって長井が寄与した経緯は、文献39に記載されている。

セチの入学審査の過程において、不思議な動きが2回目の教授会以後にあった[6]。

①    ここに至って、セチが志望先を農学第三部から第一部に変更した。
②    女子入学調査委員長として、当初は宮部が指名されたが、南に変更された。
       しかし、3回目の教授会では、なぜか宮部が委員長として報告をしている。

理由は、明らかでないとされる[6]。

筆者は、入学が許可されるか予断を許さないこの時期に、後に卒業研究を指導することになる星野勇三を、セチが頼ったのが、その理由と推測した。
星野は、川代山に隣接する羽黒の出身であり、以前から同郷である庄内出身者を熱心に助けていた[40,41]。
もし、星野がセチの素性を知れば、間違いなく力になろうとしただろう。

この時点で、星野がセチを知った蓋然性は、高いと考える。

①    星野の妻・いはゑは、星野と同じく羽黒に所縁があり、かつ東京女高師の先輩でも

  あった[6,40]。入学審査の少し前に、女高師の修学旅行の一行が来札し、札幌在住の卒

  業生は、出迎え・見送りや案内のため、互いに接触する機会が多々あったと思われる

  [4]。
②    星野も教授であることから、セチの願書にアクセスできた可能性が高い。
       あるいは、教授会で志望者セチの身上について、説明されたかもしれない。
③    押切加藤と星野は、実は遠戚である。押切加藤の分家のひとつ(共同で調査をしている

       加藤敦・淳氏の家)は、隣村の富樫家と姻戚だった。この富樫家は星野家の親族であ

       る。上記の押切加藤分家は、大正5年以降に北海道岩内に移住しており、北大在学中の

       セチとも交流があった(加藤淳氏、私信)。したがって、押切加藤と星野は薄い縁だ

       が、星野の存在を知るきっかけになった可能性はある。
④    セチの入学を実現するため奔走した森本は、星野とは農学校予科以来の同期生で親友で

       あった[42,43]。森本が星野に相談をもちかけた可能性もある。

物語では、①の可能性を基にしたが、いはゑの訪問は筆者の創作であることを、念のために書き添える。

また、複雑な女子入学調査委員長の交代は、物語に書いたように、セチの志望先の変更に伴う副次的な動きと解釈すれば、すっきりする。


 


第三十二話 日本人を育てるのは誰か?
 


物語中、宮部が語る、長井と学生のエピソードは、文献39に典拠した。

 


第三十三話 実験するべきだ
第三十四話 エルム(一)
第三十五話 エルム(二)

 


物語中、セチの採用について、教授会は“実験”と位置付けた。

佐藤昌介は、後に故郷の花巻にある高等女学校での講演において、
「北海道大学には選科生として五年前から女子高等師範の卒業生を入学せしめ(中略)
今日迄の“実験”に徴するも其処に何等非難すべき点も発見し得ないのである。」
と述べている[6,44]。

 



第三十六話 ちょっと可哀そうな者
 


森本の談話は、実際に新聞に掲載されている[45]。

セチは森本に対しては、
「当時学務部長であられ且アメリカ通でもあられた森本厚吉先生等のなみなみならぬお骨折りでやっと農学一部に全科選科生として学ぶ事を許された。」
と、後に感謝をこめた回顧文を書いている[7]。

それに比べて、佐藤については、そっけない。
上記の森本への謝意も、総長の佐藤をさしおいて述べられている。
ほかにも、
「本学は女子学生に門戸を開いている、のひと言を聞いて、北大で学ぶ決心をされました。しかし、学長の言葉は、女学生の関心を得るために口にしたらしく(後略)」[10]
と、あまり好意的には見えない。
物語のつづきに書かれるだろう、入学以後の経緯も、影響したのかもしれない。

しかし、佐藤こそ、セチの成功を願っていたのは、前後の言動から明らかである[6]。
この回の標題は、それに対する筆者の感想である。


 


解説(了)

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